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2010年10月20日水曜日

パドヴァの植物園(オルト・ボタニコ)(イタリア共和国)

Botanical Garden (Orto Botanico), Padua

パドヴァはイタリア・ヴェネト州にある町であり、ヴェネツィアの西約30kmに位置している。この町にあるパドヴァ大学は1222年に創立された大学であり、イタリアではボローニャ大学に次いで古い。ガリレオやダンテ、ペトラルカが教えていたことでも知られている。この大学に付属している植物園が世界遺産として登録された「パドヴァの植物園(オルト・ボタニコ)」である。

この植物園は植物学者フェデリコ・ボナフェーデが構想し、建築家のアンドレア・モロニが設計した。開園は1545年の7月7日。研究目的の大学付属植物園は世界でも最古のものとなった。

現在でも創設当時の設計による庭園が残っており、庭園は円形で4つのエリアに区切られている。

園内最古の植物は、1585年に植えられたヤシの木。ゲーテが訪れて感銘を受けたことから、「ゲーテのヤシ」とも呼ばれている。

この植物園ではヒマワリの花をヨーロッパで最初に開花させ、イタリアで初めてジャガイモの栽培が行われたなどの記録も残っている。

2010年9月3日金曜日

エヴァグレーズ国立公園(アメリカ合衆国):2010年登録危機遺産

Everglades National Park (United States of America)

エヴァグレーズ国立公園は深刻で継続的な水界生態系の劣化が原因で危機遺産に登録されることになった。

危機遺産登録はアメリカ合衆国側からのリクエストであった。エヴァグレーズ国立公園が危機遺産に登録されるのは2度目である。最初は1993年でありハリケーン・アンドリューによるダメージと農業・都市開発による水質の顕著な劣化が原因であった。2007年には公園そのものとより広範な生態系の回復が評価され、危機遺産リストからはずされることになった。

しかしながら、遺産の劣化は進行していた。水の流入が60%も減少し、富栄養化、水生生物の生息域の消滅とそれに付随する水生生物の減少の顕著な兆候が見られるほど、栄養素汚染が進んでいた。アメリカ合衆国の要請によって、2010ユネスコ世界遺産センターとIUCNの専門家に遺産を訪問してもらい、その現状を評価していち早い危機遺産リストからの脱却の支援を求めている。

エヴァグレーズはフロリダの南端にあり、西半球で最も大きなマングローブの生態系、北米で最も広大なソーグラスの平原と最も重要な渉禽の繁殖地となっている。「内陸から海に向かってわずかに流れる草原の河」ともいわれている。海棲動物の多様性は類を見ず、多くの鳥類、爬虫類、マナティーなどの絶滅危惧種の聖域となっている。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00026.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00024en.html

2010年9月2日木曜日

カスビのブガンダ王国歴代国王の墓(ウガンダ):2010年登録危機遺産

Tombs of Buganda Kings (Uganda)

2010年3月に、火災によってカスビの丘の頂部にある旧宮殿が焼失した。この旧宮殿はこの遺産の主要な構造物であり、4つのブガンダの王墓が含まれていた。この遺産は13世紀にブガンダ王国によって発展した建築様式の顕著な見本であり、再建される予定である。

カスビのブガンダ王国歴代国王の墓はカンパラ地区丘陵部の30ヘクタールに及ぶ地域を包括すしている。指定されている地域のほとんどは農地であり、伝統的な方法で農耕が行われている。核心部である丘陵の頂部ではブガンダ王国のカバカ(王)の旧宮殿があり、1882年に建設され、1884年に王墓として利用されるようになった。この旧宮殿にある、円形でドーム型天井を持つ主屋には4つの王墓があった。これは主に木材、わら、葦、編み枝としっくいによる土壁など自然の材を用いて作成された建築活動の優れた見本となっている。

しかしながら、この遺産の重要性は、信仰、精神性、継続性、アイデンティティといった、眼に見えない価値に置かれている。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00699.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00715en.html

2010年9月1日水曜日

アツィナナナの雨林(マダガスカル):2010年登録危機遺産

Rainforests of Atsinanana (Madagascar)

不法な伐採と絶滅危惧種のキツネザルの狩猟が原因で危機遺産リストに登録された。紫檀や黒檀の伐採と輸出が法令で違法とされているにもかかわらず、マダガスカルでは不法に伐採された木材の輸出を規制しないままとなっていることや、輸出先の国が世界遺産条約を批准していることが、世界遺産委員会から指摘されている。

世界遺産委員会はマダガスカル政府に法令を強化し、不法な伐採活動を中止するための措置を講じるよう要請している。また、国際的なマーケットにマダガスカルの不法伐採木材が流れないよう求めている。

6000万年前に大陸から切り離されて以来、マダガスカルの動植物は独自の進化を遂げてきた。「アツィナナナの雨林」はこの国の東側にある6つの国立公園から成っており、この島の地理的な歴史を反映している固有の生物多様性を存続するために必要な、現在も続いている生態系のプロセスを維持するために極めて重要である。多くの種が希少で絶滅危惧種であり、とりわけ霊長類、キツネザルがそうである。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00830.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00844en.html

2010年8月29日日曜日

バグラティ大聖堂とゲラティ修道院(グルジア):2010年登録危機遺産

Bagrati Cathedral and Gelati Monastery (Georgia)

再開発プロジェクトの一環として遺産の範囲内で行われた不可逆の改変によって、遺産の統一性と真正性が損なわれる危険があるとされた。

バグラティ大聖堂は、グルジア統一王国の最初の王バグラト3世の名前にちなんでおり、その建設は10世紀末に始まり、11世紀初頭に完成した。ゲラティ修道院は、主屋が12世紀から17世紀の間に建てられており、荘厳なモザイクと壁画のある保存状態の良い複合体である。この大聖堂と修道院は中世グルジア建築の開花の象徴といえる。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00426.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00415en.html

2010年8月28日土曜日

2010年に危機遺産に登録された世界遺産のリスト

2010年に危機遺産リストに登録された世界遺産
(各遺産名は世界遺産オンライン事典へのリンクになっています。)


バグラティ大聖堂とゲラティ修道院(グルジア)
(英語)Bagrati Cathedral and Gelati Monastery (Georgia)

アツィナナナの雨林(マダガスカル)
(英語)Rainforests of Atsinanana (Madagascar)


カスビのブガンダ王国歴代国王の墓(ウガンダ)
(英語)Tombs of Buganda Kings (Uganda)


エヴァグレーズ国立公園(アメリカ合衆国)
(英語)Everglades National Park (United States of America)

ロシア プトラナ高原

Putorana Plateau

世界遺産「プトラナ高原」はプトランスキー州自然保護区に一致しており、中央シベリア北部のプトラナ高原の中心に位置している。また、場所は北極線からおよそ100km北にある。世界遺産リストに記載された高原の一部は亜寒帯、寒帯の孤立した山岳地帯における完全な生態系となっており、タイガの原生林、森林ツンドラ、ツンドラや寒帯の砂漠のシステム、人の手のはいっていない冷水湖や水系などが含まれている。主要なトナカイの回遊路がこの遺産の範囲を横切っており、この自然現象は他に例がなく、大規模で、より希少になってきている。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1234

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00912.html

2010年8月27日金曜日

レユニオン島

Pitons, cirques and remparts of Reunion Island

世界遺産としてのレユニオン島の範囲は、レユニオン国立公園の核心地域と一致している。この遺産は10万ヘクタール、レユニオン島の40%の範囲である。レユニオン島はインド洋の南西に位置する2つの隣接する火山による山地から成っている。2つの高い火山が聳え立ち、巨大な断崖や3つの崖で縁取られた圏谷があることから、この遺産は極めて起伏に富んだ地形や壮大な急斜面、森林になっている渓谷や盆地があり、特筆すべき景観を有している。多種多様な植物の生息地になっており、高い固有性を示している。亜熱帯雨林があり、雲霧林と荒野は顕著な、そして視覚的にも人目を引く生態系と景観のモザイクを生み出している。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1317

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00911.html

2010年8月26日木曜日

フェニックス諸島保護地域

Phoenix Islands Protected Area

フェニックス諸島保護地域は南太平洋の408,250平方キロメートルに渡って広がる、水生、陸生生物の生息地である。この遺産はキリバスの3つの諸島のうちの1つ、フェニックス諸島を包含しており、指定されているものでは世界でも最大の海洋生物保護地域である。フェニックス諸島保護地域は人の手の入っていない、世界で最も大きなサンゴ礁群生態系の内の1つであり、14の海山(死火山と推定されている)と深海の生物の生息地がある。この地域にはおよそ800種の植物があり、そのうち200はサンゴの種で、500が魚類、18の海洋哺乳類と44が鳥類である。フェニックス諸島保護地域の生態系の構造と機能は、これらが原生であることと、回遊路、巣としての重要性をよく示している。この遺産はキリバスで初めて世界遺産として登録された。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1325

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00910.html

丹霞山(中国丹霞)

China Danxia

中国丹霞は、内的営力(隆起を含む)と外的営力(風化や浸食を含む)の影響によって発達した大陸の赤色の陸源性堆積物で構成された景観に対して、中国で付けられた名前である。この遺産は中国南西部の亜熱帯地域にある6つの地域で構成されている。これらは壮観な赤い断崖と自然の浸食作用によって形作られた地形が特徴的であり、自然の柱、塔、峡谷、渓谷や滝などが含まれている。このような起伏に富んだ地形は亜熱帯の広葉樹林を保護するの役立っており、多くの種類の動植物の生息地にもなっている。そのうち400種は、希少種か絶滅危惧種である。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1335

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00909.html

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2010年8月25日水曜日

ブラジル サンクリストーヴンのサンフランシスコ広場

São Francisco Square in the Town of São Cristóvão

ブラジルのサンクリストーヴンにあるサンフランシスコ広場は、初期の建築であるサンフランシスコ教会と女子修道院や、サンタ・カーサ・ダ・ミゼリコルディア、この地域の宮殿と、付随する様々な時代の住宅によって囲まれた四辺形の空間である。記念建造物の集合や18、19世紀の住宅群は、この街の始まりから現在に至る歴史を象徴する都市景観を生み出している。フランシスカンの建築の複合体は、北東ブラジルで発展した宗教思想による建築の、典型的な例とされている。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1272

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00908.html

2010年8月20日金曜日

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2010年8月19日木曜日

オアハカの中部渓谷にあるヤグルとミトラの有史以前の洞窟

Prehistoric caves of Yagul and Mitla in the Central Valley of Oaxaca

この世界遺産は亜熱帯のオアハカ中心部、タラコルラ河谷の北の斜面に位置しており、2つの先スペイン期の考古学的複合体と一連の先史時代の洞窟と岩陰の遺跡から成っている。これらの岩陰遺跡のいくつかは考古学や岩絵による、遊牧的な狩猟採集民から初期農耕民への発展に関する資料となっている。洞窟の1つ、ギラ・ナキッツから発見された10000年前のウリの種はアメリカ大陸で発見されている最も古い栽培植物の証拠であり、同じ洞窟から発見されたトウモロコシの穂の軸は、トウモロコシ栽培の記録されている最も古い資料である。ヤグルとミトラの先史時代の洞窟に見られる文化的景観は、人間と自然のつながりが北アメリカにおいて植物栽培の起源となり、メソアメリカ文明を生み出す下地になったことを示すものである。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1352

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00892.html

カミーノ・レアル・デ・ティエラ・アデントロ

Camino Real de Tierra Adentro

カミーノ・レアル・デ・ティエラ・アデントロは「大地の中にある王の道」であり、「銀の道」としても知られている。メキシコのメキシコシティーからアメリカのテキサス州とニューメキシコ州を結ぶ2600kmの道であり、55の遺跡がある。この一部である1400kmの範囲が世界遺産に指定されており、世界遺産を構成しているサイトが5つある。この道は16世紀の中ごろから19世紀の300年間に渡り、主にサステカス、グアナファト、サン・ルイ・ポトシの鉱山から採掘された銀、ヨーロッパから輸入された水銀を輸送する交易路として活発に利用された。銀採掘産業によって開発され、整備された道ではあるが、スペインとアメリカインディアンとの社会、文化、宗教のつながりを生み出す触媒となった。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1351

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http://worldheritage.is-mine.net/r00907.html

17世紀に建設されたアムステルダム・ジンフェルグラハトの運河網

Seventeenth-century canal ring area inside the Singelgracht, Amsterdam

アムステルダムの歴史的な運河網は、16世紀末から17世紀の初めにかけて建設された、新しい港湾都市プロジェクトによって生まれたものである。歴史的な旧市街の西と南に繋がる運河網と旧市街を取り囲む中世の港によって構成されており、市の内陸にある城壁による境界、ジンフェルグラハトが含まれている。これは、同心円の円弧状の運河によるシステムを用いて沼沢地の排水を行い、その間を埋めることで街を拡大していくという、長期に渡るプログラムの一環であった。この地域には切り妻造りの屋根を有する家々や多くの記念建造物を含む、首尾一貫した都市景観が育まれている。この都市の発展は当時最も広大で、かつ一様であった。大規模な都市計画のモデルとして、19世紀に至るまで世界で模範となっていたのである。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1349

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00906.html

iPhone、iPad向けアプリ「Fotopedia」

世界遺産の2万点の写真と説明を見ることができるiPhone、iPad向けアプリ「Fotopedia Heritage」がリリースされているようです。ユネスコ世界遺産センターが協力している模様。

Fotopedia Heritage

2010年8月18日水曜日

熊野古道で「牛馬童子」の頭部がバス停ベンチでみつかる

世界遺産の紀伊山地の霊場と参詣道に含まれている熊の古道で2008年6年に「牛馬童子」の石像の首が切断された事件があり、首が行方不明のまま修復がなされていましたが、その首が和歌山県田辺市のバス停のベンチで発見されたようです。

詳細は下記リンク

熊野古道:「牛馬童子」の頭部か 和歌山・バス停ベンチに


世界遺産オンライン事典:紀伊山地の霊場と参詣道

2010年8月17日火曜日

アルビの司教都市

アルビの司教都市はフランス南西部のタルン川の辺に位置しており、この古い街は中世の建築と都市の集合体の全盛期の面影を残している。古い橋(ポン・ヴュ橋)、サン・サルヴィ地区やそこに建つ教会はこの街の初期の発展段階(10〜11世紀)をよく示している。13世紀に南フランスで盛んだった異端アルビ派(カタリ派)を征討するためにローマ教皇インノケンティウス3世によって呼びかけられたアルビジョア十字軍を経て、司教都市として力を強めていった。赤とオレンジ色が特徴的な地元の煉瓦を利用して建てられた南フランスの独特のゴシック様式の、高くそびえる要塞化された大聖堂(13世紀末)が街のそこかしこに存在しており、復興したローマカトリックの聖職者の権力をうかがわせる。聖堂の傍には主教のための巨大なベルビ宮殿があり、川を見下ろす位置にあり、中世にまで遡る居住区に囲まれている。アルビの司教都市は首尾一貫とした、同質の記念建造物の集合であり、何世紀にも渡って大きな変化もなく残存する地域となっている。

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1337

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00905.html
(英語)
http://worldheritage.is-mine.net/r00905en.html

2010年8月13日金曜日

ホームページの英語バージョンをリリース

ホームページ「世界遺産オンライン事典」の英語版を作成しました。
English Version was released!

World Heritage Online

It's not just the Encyclopedia of UNESCO World Heritage, but also you can add the comments to each site pages by the account of twitter etc. Any comment will be appreciated!

日本語版の上にある小さいメニューの「世界遺産トピックス(ブログ)」、「お問い合わせ」のならびに、「English」というリンクを新たに追加しています。
ここから、英語版のトップページにアクセスできるようになっています。

サイト内検索ボックスを追加

このブログと本家の「世界遺産オンライン事典」を横断して検索できるサイト内検索を設置しました。

このブログでは左上のメニューに検索ボックスがあります。

世界遺産オンライン事典では50音から遺産を探すことができますが、世界遺産の名称は長いものがあって、キーワードはわかっていても最初に来る文字が何かわからないことがあります。

この検索ボックスを使えば、キーワードから目的の世界遺産を探すことができます。

ぜひ試してみてください。

2010年8月12日木曜日

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2010年8月11日水曜日

サラズム

Proto-urban site of Sarazm

サラズムとは「大地の始まるところ」を意味しており、紀元前4000年紀から3000年紀末までの中央アジアにおける人類による居住の発展過程を示す考古学遺跡である。遺跡は初期の都市化の発展過程をよく表している。中央アジアでも最も古いものの1つである居住地は、遊牧民による畜牛の飼育に適した山間や、この地に初めて居住した人々による農耕・灌漑の発展に貢献した広い渓谷に位置していた。またサラズムは極めて広い範囲で商業的・文化的交流が行われていたことを例証している。その範囲は中央アジアのステップ、トルクメニスタンからイラン高原、インダス渓谷、さらにはインド洋にまで及んでいる。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1141

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00904.html

2010年8月10日火曜日

少林寺塔群を含む河南省登封の”天地之中”歴史建築群

Historic Monuments of Dengfeng in "The Centre of Heaven and Earth"

嵩山(すうざん)は中国の聖山の中心と考えられている。この標高1500mの山の麓、河南省登封市付近の40平方キロメートルの円状の地域の中に、8つの建築と遺跡の集合体がある。その中には残存する中国で最も古い宗教建造物である嵩山三闕銘や寺院、周公廟の観星台、登封天文台なども含まれる。これらの建築物は9つの王朝に渡って建設されており、天地の中心や信仰の対象としての山の力に対する認識の違いを反映している。登封市の歴史的記念物は宗教や科学、技術、教育に捧げられた中国の古代建造物の最もすぐれた例に含まれる。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1305

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00903.html

スリランカの中央高原地帯

Central Highlands of Sri Lanka

スリランカの中央高原地帯はスリランカの島の中央南部に位置している。構成資産として、ピーク自然保護区域、ホートン・プレインズ国立公園、ナックルズ森林保護区域がある。これらの山地型の森林は海抜2500mの高地にあり、絶滅危惧種であるカオムラサキラングール(the
western-purple-faced langur)、ホートンプレインズホソロリス(the Horton Plains slender
loris)、スリランカヒョウなどを含む、極めて多くの種類の動植物の生息地になっている。この地域は超生物多様性ホットスポットと考えられている。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1203

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00894.html

タンロン遺跡

Central Sector of the Imperial Citadel of Thang Long - Hanoi

タンロン遺跡の王城は11世紀に李王朝によって築かれたものであり、大越の独立を示すものである。紅河のハノイのデルタ地帯を埋め立てた干拓地の上に7世紀に建てられた、中国の要塞跡の上に建設されている。13世紀の間絶えることなくこの地域の政治的権力の中心であり続けた。北は中国、南はチャンパ王国の影響がある交差点に位置していることから、紅河渓谷下流に特徴的な、独特の東南アジア文化が生まれたのであり、タンロンの王城の建築と18のホアン・ディエウ遺跡がそれを反映している。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1328

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00902.html

大韓民国の歴史的村落:河回村と良洞村

Historic Villages of Korea: Hahoe and Yangdong

河回村と良洞村は14〜15世紀に成立した、韓国の中でも最も代表的な伝統的部族村と考えられている。森林に覆われた山々に囲われ、川に面し、開放的な農地を有するというこれらの村のレイアウトと立地は、李氏朝鮮初期の特徴的な貴族的儒教文化を反映している。村は物理的、精神的な栄養を周囲の環境から供給する立地になっている。村は長となる家族や、丸太を利用した他の部族のメンバーによる家、楼閣、学び舎、儒教学校、土壁と藁葺き屋根による一般の人々のための住宅の一団が含まれている。楼閣や静養所から眺める村の周囲の山や木々、水は17世紀、18世紀の詩人たちによってその美しさが讃えられている。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1324

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00901.html

タブリーズの歴史的な複合バザール

Tabriz Historic Bazaar Complex

タブリーズは古代より文化的交流の地となっており、その歴史的なバザール複合体は最も重要なシルクロードの商業センターの1つであった。タブリーズの歴史的複合バザールは、相互に連結し、覆われた、煉瓦建造物、建築、様々な機能を有するスペースによる一連のまとまりによって構成されている。タブリーズとそのバザールは13世紀にはすでに繁栄して名前が知られており、そのときにはアゼルバイジャンの東の地域にあったこの街はサファヴィー朝の首都となった。16世紀には首都としての地位が失われたが、18世紀の末のオスマン朝の拡大までは商業の拠点として依然として重要な街であった。イランの伝統的な商業、文化システムを最も包括的に示す例の一つと考えられている。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1346

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アルダビールのシャイフ・サフィーアッディーン廟とアンサンブル神殿

Sheikh Safi al-din Khānegāh and Shrine Ensemble in Ardabil

アルダビールのシャイフ・サフィーアッディーン廟とアンサンブル神殿は16世紀のはじめから18世紀に建てられており、スーフィーの精神への回帰から、イランの伝統的な建築の形式を採用している。建設者は限られたスペースを、多くの機能が含まれるように最大限活用しており、図書館、モスク、学校、霊廟、貯水槽、調理場、パン工房やいくつかの仕事場などが含まれている。遺産にはファイフの霊廟へ通じる道も含まれている。道はスーフィーの神秘主義の7段階を表す7つの段に分けられており、スーフィーの8の態度を示す8つの門で区切られている。またこの遺産にはファサードや豪華に装飾されたインテリア、優れた骨董品のコレクションも含まれている。これらは中世イスラム建築の要素を凝縮した希少な例となっている。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1345

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http://worldheritage.is-mine.net/r00898.html

ジャイプルのジャンタルマンタル(ジャイプルの天文台)

Jantar Mantar

ジャイプルのジャンタルマンタルは18世紀に建てられた天体観測のための遺跡である。およそ20の修復された装置のセットが含まれている。これらは知られている装置を石造で作成した記念碑的な例であるが、多くの場合独特の特徴を備えている。天体の位置を肉眼で観察するためにデザインされており、いくつかの建築的、装置的な技術革新を体現している。ジャンタルマンタルはインドの歴史的天文台の中で最も重要で、総合的であり、かつよく残存しているものである。ムガル朝末期の王宮の学者王子の天文技術と宇宙観を示している。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1338

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00897.html

オーストラリアの囚人遺跡群

Australian Convict Sites

オーストラリアの囚人遺跡群は18世紀から19世紀に、オーストラリアの地で大英帝国によって建てられた何千もの刑場遺跡から、11の刑場を選んで登録された世界遺産である。主にシドニー付近とタスマニア、ノーフォーク島とフレマントル付近の肥沃な細長い海岸線に位置しており、アボリジニの人々がそこに移住するよう強制された。何万もの男女、子供がイギリスの判事によって強制的に囚人収容所に送られ、居住していた。懲罰的な投獄と収容所を建設するための強制労働者への更正という点によって、刑場にはそれぞれ特別な役割があった。この遺産は大規模な囚人の移送と、強制労働者を用いたヨーロッパ勢力による植民地拡大の、現存する最も優れた証拠と考えられている。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1306

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http://worldheritage.is-mine.net/r00896.html

ツライフの要塞

At-Turaif District in ad-Dir'iyah

ツライフ要塞はサウジ・アラビア王朝の最初の首都がおかれた場所であり、アラビア半島の中央部、リヤードの北西に位置している。15世紀に建設されており、アラビア半島中央部に特徴的なナジュドの建築様式が取り入れられている。18世紀から19世紀初頭にはその政治的、宗教的な役割は増加し、ツライフの要塞はサウジ王家の世俗的権力、ワッハーブ派によるイスラム教の改革運動の中心となっていた。この世界遺産にはディリヤ・オアシスの縁辺に建設された多くの王宮や都市も含まれている。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

ユネスコ世界遺産センターのページ
http://whc.unesco.org/en/list/1329

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http://worldheritage.is-mine.net/r00895.html

パパハナウモクアケア

パパハナウモクアケアは海抜の低い小さな島々と環礁が線状に並んだ、広大で独立した群島とその周辺の海域である。ハワイの主要な群島から北西約250kmのところに位置しており、長さは1931km以上もある。この地域はハワイの原住民にとって、宇宙論的にも、歴史的にも極めて重要である。それは、人々と自然とのつながりに関するハワイ原住民の概念を具体化しているものであり、生命が生まれるところであり、そして死後魂が帰っていく場所である。群島の中のニホアとマクマナマナにはヨーロッパ人来訪以前の住居や生活に関する考古学的遺跡が残っている。広大なサンゴ礁やラグーンに恵まれ、海山と呼ばれる深海の山々も存在する。世界で最も広大な海洋保護区でもある。

(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳。大きなミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)

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ビキニ環礁

第2次世界大戦の傷跡がまだ癒えず、世界が冷戦へと向かいつつあった時期に、アメリカ合衆国は太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁で核実験を開始する決断を下した。この地域に住んでいた人々を移住させた後、1946年から1958年の間に67回の核実験を実施した。

最初の実験は1946年のクロスロード作戦である。71隻の艦艇を標的とした実験であり、第2次大戦後接収した日本やドイツの艦艇も標的となっていた。空中での爆破実験と水中での爆破実験が行われており、水中爆発では1600mに及ぶ水柱があがっている。この時沈没した船は今もラグーンの底に残っている。


1954年に行われた水爆の実験は、キャッスル作戦と呼ばれている。原子爆弾1000個分の威力を持つ水爆実験によって、直径約2キロメートル、深さ73メートルの巨大なクレーターが形成された。このクレーターはこの実験のコード名「ブラボー」から「ブラボー・クレーター」とも呼ばれている。

この実験の際、日本のマグロ漁船第五福竜丸を含む1000隻以上の漁船が死の灰を浴びて被爆している。また約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り、島民が被爆している。

水素爆弾が実戦で使用されたことは、幸いにしてまだない。しかしながらアメリカ合衆国、ロシア、イギリス、フランス、中国を筆頭に核兵器の保有は現在もなお続いている。

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2010年8月9日月曜日

ウルル・カタ・ジュタ国立公園


ウルル・カタ・ジュタ国立公園は、エアーズロックとも呼ばれる一枚岩「ウルル」と、同様に岩石の山である「カタ・ジュタ」(オルガ山)の2つを中心としている。オーストラリアのノーザンテリトリーにあり、オーストラリアのほぼ中心に位置している。

「大地のヘソ」もしくは「地球のヘソ」と呼ばれるウルルは、以前は「エアーズロック」という名称で呼ばれており、現在でも後者の方が有名な印象を受ける。「エアーズロック」はオーストラリアの植民地時代の総督ヘンリー・エアーズの名前からつけられた。「ウルル」という名称はアボリジニによるもので、現在ではこちらが正式な名称である。「ウルル」はアボリジニの聖地でもあり、所有権もアボリジニの組織にある。

「ウルル」はgoogle mapの航空写真で見ると、そのスケールの大きさがわかる。周囲の平地との比高は335m、周囲は9.4kmもあるのだが、実は地表面にでているのは全体の5%といわれているから驚きである。なお「ウルル」は世界で二番目に大きい一枚岩であり、一番ではない(一番はマウント・オーガスタスであり、同じくオーストラリアにある)。雨や風などの浸食を受け、約7000万年前には現在の形になったといわれている。

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ウルルはアボリジニの聖地でもあり、アボリジニが残した壁画が見られるなど、文化的な価値も高い。
朝夕の光に包まれた赤色のウルルの絶景を見ることも一つの楽しみ方だが、実際に山に登ることができる。しかし、杭を打って鎖をつないだ登山路がつくられており、そこに観光客が上っていくことを快くおもっていないアボリジニもいると聞く。また転落による事故もあることから、悪天候の際は上ることができない。アボリジニの儀式が行われる時も、登頂は許されていない。アボリジニへの配慮から、ウルルへの登頂が禁止になるという話も出ている。

ただのでっかい岩だ、ということもできるかもしれない。しかし、想像を超えた、その途方もない大きさは、人々を感動させるのに十分である。なぜ人はとてつもなく大きいものに感動するのだろうか。その答えは今わからないが、とにかく圧倒されてしまう。

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2010年8月1日日曜日

ヘッド・スマッシュト・イン・バッファロー・ジャンプ


ヘッド・スマッシュト・イン・バッファロー・ジャンプは、奇妙な名前だが、立派な世界遺産である。アルバータ州の南西部、カルガリーの南東、ポーキュパインの丘に位置する、紀元前3500年以上前からアメリカ先住民が利用していた野牛のバッファロー(正式にはアメリカン・バイソン)の狩猟場跡。

幅300m、高さ18mの崖があり、崖の西には広大な草原地帯が広がっている。この草原に生息していたバッファローを崖へと通じる道(ドライブ・レーンと呼ばれる)へと追い込み、崖から落として捕まえていた。ドライブ・レーンには意思による道標があり、崖の周囲には火を焚いていた痕跡が認められる。崖下で動けなくなったバッファローを解体し、肉は食料に、骨や毛皮は生活用具や衣服に利用された。

こうしたバッファローの狩猟方法は、他の北アメリカ地域でも利用されていたと考えられているが、ヘッド・スマッシュト・イン・バッファロー・ジャンプはその中でも特に規模が大きく、崖下に残っている骨は多いところでは11mも堆積している。骨とともに木づち、やじり、鍬などの道具も発見されている。アメリカ先住民のブラックフット族は、この崖を「血に染まった深い淵」と呼んでおり、狩猟は19世紀頃まで続いていたと言われている。

崖の近くには、資料館があり、ブラック・フット族の末裔達により、当時の生活や狩猟の様子が再現されたイベントが催されている。

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関連動画(英語)






2010年7月31日土曜日

カピバラ山地国立公園


カピバラ山地国立公園(セラ・ダ・カピバラ国立公園)はブラジルのピアウイ州にある国立公園。面積は979平方kmにも及び、絶壁がそそり立つ奇岩群と灌木が見られる。3万点もの線刻による岩絵や洞窟壁画が発見されており約400の遺跡が確認されている。

遺跡の1つ、サン・ライムンド・ノナト遺跡には、カピバラ、シカ、ジャガーなどの動物、古代人の生活、狩猟、儀式などの場面を描いた岩絵が264か所残っている。他にもすでに絶滅した動物と考えられるものや、船の絵なども発見されている。

遺跡で採取された試料による放射性炭素年代測定が行われており、古いものでは60000年前に遡る結果が出ている。これらは、南米に残された最も古い人類活動の証拠の一つとなっている。

通常、土器出現以前(例えば、最古といわれている縄文時代の土器は16000年程前)の旧石器時代の遺跡では、人類が利用した石器が遺物の大半を占めており、その他の遺物はほとんどなく、当時の人々がどんなものを見て、どんな活動をしていたかを知る手がかりは極めて乏しい。考古学の研究では、わずかな証拠から当時の人々の活動を復元しなければならないため、多大な困難が伴うことは言うまでもない。

そんな中にあって、60000年も前の人の「精神」に触れるような資料がどれだけ重要かは、容易に想像がつく。もちろん、残された壁画からどうやって実証的に当時の人々の心を分析するのか、という問題はまだつきまとってはいるのだが。

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スルセイ(スルツェイ)


1963~67年の海底火山の噴火で形成された無人島であり、アイスランドの南に位置している。歴史上、最も詳細に記録された海底火山の噴火の一つとして、地学的価値が大きい。また1965年6月には浜辺に植物が生えているのが発見され、現在では緑に覆われ、アザラシや海鳥も集まっている。

「スルセイ」とは「スルトの島」の意であり、「スルト」とは北欧神話に登場する、炎の剣を振りかざして南から神々に襲いかかる巨人の名前だえる。アイスランドの南の海上で炎を吹き上げる様子から、この名前が付けられている。

また神話では、スルトの炎によって焼かれ、海に沈んだ大地が再び浮かびあがり、種をまかずとも穀物が実ったというくだりが『エッダ』に書かれている。この描写は、スルセイが噴火後に緑に覆われたことと関連しているようで面白い。

こうしたことから、北欧の神話にある描写が、火山活動から着想を得ている可能性を示唆するものとしても興味深い遺産である。

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2010年7月29日木曜日

アマルフィ海岸


アマルフィ海岸はイタリアのソレント半島南岸に位置しており、世界一美しい海岸とも言われている。
30kmに及ぶ海岸線は断崖となっており、その斜面に張り付くように町が広がっている。最も大きな町はアマルフィであり、そのほかにもポジターノ、ラヴェッロなどの町が有名である。

アマルフィ海岸にはギリシア神話にまつわる数々の伝説が語り継がれている。

例えば、ギリシア神話のヘラクレスは愛する妖精「ニュンペー」とともに幸せに暮らしていたが、ある日突然その妖精は亡くなってしまう。嘆き悲しんだヘラクレスは世界で最も美しい場所に葬り、街を切り開いて彼女の名前をつけたとされており、それがアマルフィの街となったといわれている。

またアマルフィの西にあるポジターノには、ギリシア神話のポセイドンが妖精「パテジア」に贈ったのが名前の由来とされている。その近くのガッリ諸島には上半身が人間の女性、下半身が鳥の姿をしていたとされる怪物「セイレーン」がいたと言われている。セイレーンは美しい歌声で船人を魅了して難破させ、海に引きずり込むという言い伝えがあり、実際に多くの難破船が今も沈んでいるそうである。

アマルフィは景色こそ風光明媚な土地であるが、その暮らしは容易ではなかったようである。
近代までまともな道路がなかったため、陸路による外部へのアクセスができないことや、断崖のために栽培に十分な土地もなく、交通も不便で潮風も農耕に不利であり、時には嵐による被害を被ってしまう。こうした環境の中で、アマルフィの人々は潮風にも強いレモンやオリーブを栽培し、斜面を利用した土地利用を工夫しており、海運によって交易を行うなど、独自の文化を生み出していったようである。イスラム圏とも積極的に交易を行い、すぐれた技術を吸収していった。ヨーロッパで最初に羅針盤が導入されたのはアマルフィだといわれている。また陶器や寄木細工の技術を取り入れ、遠く中国からアラブ世界を経由して伝わった製紙技術によってアマルフィ・ペーパーを製造するなど、その先進性は枚挙に暇がない。

839年にはアマルフィは共和国として独立を宣言しており、11世紀頃には全盛期を迎えるが、14世紀に嵐による壊滅的な打撃を受け、衰退している。

天国のように美しい土地ではあるものの、その暮らしは決して容易ではなかったはずである。アマルフィ海岸はその景色の美しさもさることながら、この環境に適していった人々の生活の知恵と技術も面白い。

なお、アマルフィは織田裕ニ主演の映画「アマルフィ 女神の報酬」の舞台にもなっている。

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2010年7月27日火曜日

カトマンズの渓谷

カトマンズの谷は周囲を山に囲まれている、標高1300mの盆地に立地している。盆地にはガンジス川の支流であるバグマティ川が流れ、豊かな耕作地帯が広がっている。この盆地は太古の昔、湖だったとされており、マンジュシュリ(文殊菩薩)が湖を囲む山を剣で切り開き、湖の水を流しだしたという興味深い伝説が残っている。考古学的な成果では、旧石器時代から人類が住んでいたことが明らかになっている。カトマンズは現在ネパールの首都であり、ネパール最大の都市である。

カトマンズは4世紀頃からチベットとインドを結ぶアジアの交差点として栄えており、またヒンズー教や仏教の聖地もなっていて、数多くの寺院や聖堂、彫刻といった宗教芸術を見ることができる。特に、各都市のダルバール(宮廷)広場、スワヤンブナートとボウダナートのストゥーパ、チャング・ナラヤン、パシュパティナートなどが有名である。

スワヤンブナートはカトマンズの中心部から西に3kmほどはなれた丘の上にたっており、その中央部にある仏塔はネパールの仏教にとっては最も重要な仏塔とされている。この仏塔には仏陀の知恵の目が四面に描かれている。また「モンキー・テンプル」と呼ばれるほど、猿が多いことでも知られている。

1979年の世界遺産登録以後、急激な都市化が進行しており、現在では危機遺産に指定されている。

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2010年7月25日日曜日

2010年7月24日土曜日

メテオラ


メテオラはギリシア北西部、テッサリア地方北端の奇岩群とその上に建設された修道院共同体の総称。ギリシア語で「中空の」を意味する「メテオロス」という言葉に由来している。その名前のごとく、高さ数百メートルもある巨岩の上に立つ修道院は、まるで空中に浮いているかのように見える。

メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち、祈りと瞑想に生きるキリスト教の修道士にとっては理想の環境と見なされ、9世紀には既にこの奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていたが、当初は現在のような修道院共同体を形成する事はなかった。

しかし、14世紀にセルビア王国がテッサリアへ勢力を拡大し、東ローマ帝国で修道院活動の中心を担っていたアトス山は、セルビア領の中に組み込まれた。当時、戦乱を避けて多くの修道士がアトスを出てメテオラに住み着くようになった。この時期にメタモルフォシス修道院(顕栄修道院、変容修道院、主の顕栄祭を記憶する修道院)が創立され、アトス式の共同体様式が導入されることで、修道院共同体が確立していった。

14世紀の末には、テッサリアはオスマン帝国によって併合された。イスラム教徒による支配ではあったが、オスマン朝はメテオラの修道院の活動を保証したため、修道活動は継続されている。16世紀には「クレタ派」とイコンの流派がこの地でも活動し、現在も数多くのフレスコ画が残されている。

19世紀には露土戦争後にギリシア領に編入されている。その後も修道活動が続けられているが、その風光明媚な概観から、観光地として人気を博するようになった。しかしながら、メテオラはもともと俗世との関わりを断つためにわざわざ険しい環境に建てられているのであり、観光地化、大衆化とは本来相容れないもののはずだ。世界遺産に登録されたことがかえって、メテオラの価値を落としめることにもつながる結果になってしまうという、近代特有の難しい問題をはらんでいる。

いずれにせよ、このような険しい環境にあれだけの修道院を建立し、生活するには数多の困難があっただろう。それでも俗世とのかかわりを避けるために耐え、自らに苦行を強いる姿、そのパワーには畏敬の念を禁じえない。

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グレート・ジンバブエ遺跡


グレート・ジンバブエ遺跡(大ジンバブエ国立記念物)は、ジンバブエ共和国の首都ハラレから南方300kmのジンバブエ高原の南端、サビ川の上流の標高約1000mに位置する大規模な石造建築遺跡の名称である。ジンバブエとは、ショナ語で、首長、王の宮廷の意味を含んだ「石の家」という一般語であるため、特定して最も大規模で著名なこの遺跡を指すときは、語頭に「グレート」を付けるのが慣例となっている。

推定面積は、周囲の集落を含めると東西1.5km、南北1.5kmの約 2km²に及ぶと考えられている。この遺跡での人類の居住は紀元前2500年頃から始まったと考えられているが、インド洋との交易ルートの中継地として9 世紀頃から発展し、今も確認できる大多数の遺跡はこの時期に建てられたと考えられている。遺跡からは、元、明代の中国の陶磁器なども発見されている。15 世紀後半頃にグレート・ジンバブエは放棄されたようであり、その原因として交易ルートが変更されたことによる経済的な問題や、気候変化などが挙げられている。

遺跡の中心部にある石造建築物群は、50世帯近くに及ぶジンバブエの王ないし首長の一族のために築かれたもので、直方体の花崗岩のブロックを積み上げた円ないし楕円形の建物の組み合わせであって、個々にエンクロージャー(囲壁)と呼ばれている。石造建築エンクロージャー群は、おおきく三つに分けられ、北側に通称「アクロポリス」、又は「丘上廃墟」と呼ばれる建造物群、その南方に広がる「谷の遺跡」、そして最も有名な「大囲壁」(グレートエンクロージャー)に分けられる。

グレート・ジンバブエ遺跡の解釈には、19~20世紀の人種差別問題が色濃くにじみ出ている。
19 世紀のずさんな発掘調査では、薄弱な根拠から石積みによるエンクロージャーなどの優れた建築物は、現地アフリカの人々ではなく、西アジアやアラブの人々の手によって建設されたものであり、アフリカ人によって衰退した、という説が唱えられた。その背景には、白人が至上の存在であり、黒人は退廃の象徴であるとする人種差別が背景にあったことは想像に難くない。

20世紀に入り、デイヴィッド・ランダル・マッキーヴァー、ガートルード・ケイトン=トンプソンなどの考古学者の手によって、緻密な発掘調査が行われ(両者はエジプトでの発掘調査でも有名)、ケイトン=トンプソンはグレート・ジンバブエを築いたのがこの地に住んでいたアフリカ人であり、彼らが優れた技術・文化を有していたことを主張した。当然、これについては白人側から大きな批判を受けたようである。当時のローデシア政府はアフリカ人のナショナリズムを鼓舞する象徴としてグレート・ジンバブエが取り上げられることを恐れ、公式的には「謎につつまれている」という見解を表明していた。

しかし、1980年のロバート・ムガベによる黒人多数政権の台頭によって、こうした学術的な成果が受け入れられるようになっていったのである。

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