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2011年6月25日土曜日

小笠原諸島が世界遺産に決定

パリのユネスコ・第35回第世界遺産委員会による会議で、小笠原諸島が世界自然遺産として登録されることが決まった。
小笠原は固有種(その国、あるいはその地域にしか生息・生育・繁殖しない生物学上の種)に富み、独自の生態系を有することで、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれていた。
写真は小笠原諸島の南島
世界遺産委員会では42の候補に対して、世界遺産登録の可否について審議している。
会議は29日まで行われる。

2011年4月19日火曜日

メンフィスとその墓地遺跡-ギザからダハシュールまでのピラミッド地帯

Memphis and its Necropolis – the Pyramid Fields from Giza to Dahshur

メンフィスの遺跡群は偉大な文明の壮大な歴史的建造物にあふれている。サッカラにある階段ピラミッドは、規則的に切り出された石灰岩で建造されており、このタイプの建築物の中では最古の例として知られている。ギザでは、最古級の船の内の1つ、太陽の船が現在も残っており、クフ王のピラミッド複合体の近くで手つかずの状態で発見されたものである。サッカラはエジプトの中でも古い墓地遺跡があり、ファラオによる文明の形成期にあたる時代まで遡る。これらの建造物に対する人々の並はずれた歴史的、芸術的、社会学的興味は、古代エジプトが地球上で最も輝かしい文明の1つであった証拠と言えるだろう。

エジプトの古王国時代の首都であったメンフィス地域には、岩窟墓、華麗なマスタバ、神殿、ピラミッドなど、途方もない量の葬祭に関する建造物がある。古代では、ピラミッドは世界の七不思議の1つに数えられていた。
エジプト統一王朝の最初の統治者はメネスまたはナルメルであり、ナイルデルタの近くに新たな首都建設を命じた。メネスの町、メンネフェルまたはフウト・カー・プタハ(プタハ神の魂の住まう所)と呼ばれ、ろくろで人間を作り出す羊の頭をした工人の姿で表される創造神プタハのための、最も重要な聖域であった。壮大な町メンフィスは古代ギリシア人にも知られているが、今日残っているのはプタハ神殿のわずかな残りであり、ここからはファラオや偉人達を描いた奉納のための彫像や、記念碑的なネクロポリスが発見された。

サッカラのネクロポリスは首都に最も近く、またエジプトでも最大で、最初の石製の大ピラミッドが位置している。この墓は第3王朝の最初の王ジェセルによって建設された。ピラミッドは前身となっている墓の上に建てられたものである。前身の墓は大きな直方体であり、壁はわずかに内側に傾き、天井は平坦で、一般的にマスタバという名前で知られている。ピラミッドは、良質の石灰岩を用いて10mに及ぶ高さのある外壁に覆われた葬祭複合体の中に位置している。外壁には14の石製の偽扉があり、柱の列に挟まれた廊から成る巨大な入口を有する。入口は王位更新祭が行われたとされている。広場に通じている。広場の一つの側面には階段状の台があれ、そこにファラオの玉座が作られている。台の東と西には祭壇が築かれている。

第4王朝の最初の王、スネフェルは墓の構造を変化させ、現在一般的によく知られているピラミッドの形式を採用した。ダハシュールのネクロポリスには赤ピラミッドが建てられた。この名前は、ピラミッドに使用されていた石灰岩が赤みを帯びた色をしていることからつけられた。その南には途中で傾斜の角度が変わっている屈折ピラミッドが築かれており、この屈曲はピラミッドの発展過程の中間的要素を示している。

スネフェルの次の王位は、息子のクフへと引き継がれ、次いでカフラー、メンカウラーとなり、この3人のファラオがギザに大ピラミッドを築いた。ピラミッドは太陽、大いなる神ラーのシンボルであり、その信仰は第4王朝から突出したものとなった。古王国時代の末に位置づけられるピラミッドの玄室に書かれたピラミッド・テキストには、亡き王が太陽となる記述がみられる。

最も大きいクフ王のピラミッドには「クフの地平線」という名前がつけられていた。入口は北側の中央にある。内部には狭い回廊があり、二手にわかれている。1つはピラミッドの下にある岩盤を掘り抜いて作られた部屋に通じており、もう1つは「女王の間」と呼ばれる小さな部屋に通じており、この道からさらに大回廊と大きな「王の間」へと通じている。

残り2つのピラミッドはそれぞれ「カフラーは偉大なり」と「メンカウラーは神聖なり」と古代に呼ばれていた。それぞれの墓はスネフェルの命によって最初に作られた葬祭複合体の一部を形成している。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00051.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00036en.html

2011年4月17日日曜日

世界遺産 カイロ歴史地区

Historic Cairo

カイロの歴史的中心地区は、中世におけるこの都市の政治的、戦略的、知的、商業的レベルでの国際的重要性を示す、顕著な物質的証拠である。古い町並みにあふれている点で、カイロに並ぶ都市は世界でもほとんどない。カイロの東岸にある歴史地区は7世紀から20世紀までの、600に及ぶ歴史的建造物があり、良好な保存状態で、各所にちらばって都市を構成しており、中世に遡る人々の居住の様相をよく表している。

イスラム教の創設者、預言者ムハンマドの死去後の7世紀に、アラブの軍隊はすさまじい速さで隣国に兵を進めた。640年にはカリフ・オマルの軍隊がナイル川へ到達し、バビロンを占領、その真向かいに城壁に囲まれた彼自身の都アル=フスタートを建設した。そこにカリフはメディナの預言者のモスクを建てた。シンプルな中庭が日乾レンガの壁体によって囲まれ、イスラム教のエッセンスを体現しており、飾り気がなくほとんど軍事的性格を帯びていた。

アッバース朝が支配した時期には、アル=フスタートは徐々にその重要性が低下していき、
北の郊外にあるアル=アスカルに取って代わられた。この町は軍隊の駐屯地で、統治者の宮殿や住居、商店、モスクなどの建物が徐々に集まっていった。

870年には新たな支配者アハマド・イブン・トゥールーンが、エジプトをアッバース朝のカリフ支配から独立させ、北東地域に荘厳な首都、アル=カタイを新たに建設した。この町はアッバース朝が再びエジプトを支配下に置いた10世紀に破壊されてしまった。イブン・トゥールーンの大モスクは破壊を免れた。このモスクには教育の場であった列柱に囲まれた巨大な中庭があり、壮大な装飾の丸アーチが用いられていた。デザインはおそらくイラクの職人によって行われており、現在でもカイロの中で特に見事な記念碑となっている。

カイロの栄光の時代は10世紀末に始まる。このときエジプトは強大なシーア派のイスラム王朝、ファーティマ朝によって征服され、新しい首都が建設されることになった。969年に都市アル=カーヒラが建設され、首都の中心には中央政府の建築物イマームが建っており、2つのファーティマ朝の王宮があったが、今では残っていない。

現在のアル=アズハルの一画では、その他のファーティマ朝の記念碑的建造物が残っており、3つの大きな門、市の外壁の巨大な塔、5つのモスクなどがある。これらの中で、アル=ハキーム・モスクは軍事モスクの最後の例である。小型で簡素な建物で、広い開放的な中庭と壁体が付属しており、強大な権力による中世の建築物である。アル=アズハル・モスクはカリフ・ムイッズのもと、970年から972年にかけて建設されており、聖域として、または集会所としての役割を果たしていた。このモスクには大学もあり、イスラム研究の重要な中心地となった。現在の外観は、ペルシャ様式のアーチを持つ柱廊を持ち、装飾された門、巨大な祈祷者のためのホール、レースのように彫りこまれた石で装飾された、さまざまな形のミナレットなどがあり、一連の装飾計画に基づいている。

セルジューク・トルコの侵入と十字軍による攻撃の後、エジプトは1172年にアイユーブ朝の創立者サラディンによって支配された。カイロのもっとも輝かしい時代はアイユーブ朝に代わって出現したマムルーク朝の時代であり、1257年まで権勢をほこっていた。最初のマムルーク朝のモスクは1266年にスルタン・バイバルスによって建設され、巨大なドームを有していた。スルタン・ハサン7世が建設を命じたマンドラサ・モスクは1356年から1363年のものである。この印象的な建築物は、中庭を中心に十字型の平面形をしており、儀礼的沐浴のための噴水を持つ優雅な分館はピラミッドの石材を大々的に利用して建設された。厳かで巨大な建築の外観は、天に伸びるドームと4つのうち1つが残っているミナレットによってバランスがとられている。また、宗教的な建築物に加えて、スルタンは町の東側にある広大な墓地「死者の町」に壮大な霊廟を築いた。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00029.html

(英文)http://worldheritage.is-mine.net/r00028en.html

2011年4月14日木曜日

世界遺産 アブ・メナ(エジプト)

アブ・メナはアレキサンドリアの南、ワディ・ナトルーンとアレキサンドリアの間に位置している。この初期のキリスト教による聖なる町の教会、洗礼堂、バシリカ(初期キリスト教の礼拝建築、中央の身廊の周囲に側廊があり、両者は列柱によって別けられる)、公共の建築物、通り、修道院、住居、工房は、紀元後296年に死去した殉教者アレキサンドリアのメナスの墓の上に建てられている。

3世紀に建設された修道院はアレキサンドリアの戦士メナスを追悼するものであり、メナスはディオクレティアヌスの軍隊の士官であった。
メナスは軍隊が勝利を収めた後、いかなるキリスト教徒をも殺すのを拒否した。彼は自分がキリスト教徒であることを公言しており、それが他のキリスト教徒達が苦難とディオクレティアヌスの軍隊からの虐待に耐える絶大な心の支えとなった。彼の遺体はフリジアからラクダに乗せて戻され、ラクダがこれ以上歩けなくなったところに埋葬されたという伝説がある。その地には砂漠の中でも水が生まれ、ブドウとオリーブの木に埋め尽くされており、聖メナスのブドウ園として知られることとなった。

1900年頃から考古学的な発掘が実施され、アブ・メナが5世紀から6世紀に急速に発展していったことが分かった。600年にはオアシスが巨大なバシリカを中心に据えた巡礼都市となった。発掘によって居住区と墓域を含めた町の全体像が明らかになった。壺を作成していた陶工の工房、販売所や、壺、ランプ、玩具までも確認されている。

増加するキリスト教の巡礼者を受け入れるために、5世紀には温泉バシリカが建設され、バシリカの周りにある風呂やプールの水に湯治のための水が貯められていた。巡礼者達はアンプラと呼ばれるフラスコ型の小さな土器の壺にバシリカの水を入れていった。壺には、2頭のひざまつくラクダの間に立つ殉教者を描いた、聖メナスの印が押された。5世紀から6世紀の間は、多くの建築物が温泉バシリカの周囲に建てられ、その中には北側の修道院もあった。

アルカディウスのバシリカは5世紀に建設され、アレキサンドリアのすぐ南にあるカルム・アブ・メナスの美しい建築複合体の中心となっている。屋根は56本の大理石の柱によって支えられている。洗礼堂はこのバシリカの西端に位置しており、角が半円形となっていて、多彩色の大理石の壁龕がある。コプト教徒の記念碑的建造物で、古代のキリスト教建築のこうした要素を備えているものとしては、これが唯一のものである。教会はバシリカの西側にあり、エジプトとビザンツ建築の強い影響を受けている。

聖メナスは東西で最もよく知られた聖人と考えられている。これは、数多くのアンプラが世界中の様々な場所から発見されていることからでも明らかであり、ドイツのハイデルベルグやイタリアのミラン、ユーゴスラビア、フランスのマルセイユ、スーダンのデンゲラ、イェルサレムなどで見つかっている。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00015.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00013en.html

2011年4月13日水曜日

古代都市テーベとその墓地遺跡

Ancient Thebes with its Necropolis

テーベは古代エジプトの歴史、美術、宗教に関する最も優れた遺跡があり、古代エジプトの絶頂期に首都だった町である。
ファラオからローマ皇帝まで、何百もの統治者が町の建築物やオベリスク、彫像を建設した。

中王国時代から古代の終わりまで、この都市は至上の太陽神アメンの神聖な土地であった。比類ない豪華さと巨大さを持つ神殿群がこの神にささげられた。アメンヘテプ3世とラメセス2世によって建てられたルクソール神殿はカルナックの聖域とスフィンクスの列に囲まれた参道でつながっており、2つの赤色花崗岩製のオベリスクが建てられた入り口へと続いている。

ルクソール神殿の入り口はシリアやヒッタイトへの軍事遠征の場面によって飾られており、ラメセス2世によって立てられた巨大な中庭と聖船を安置するためのチャペルに続いている。聖船は父なるアメン神、ハゲワシもしくはライオンの姿で現された母なるムウト神、その子で月の神コンスの3柱神に捧げられていた。第2の構造は、アメンヘテプ3世によって立てられた巨大な塔門と列柱廊、中庭、高い柱を持つホールになっている。

ルクソール神殿から3km北には、記念碑の複合体であるカルナックがあり、3つの神殿によって構成されている。そのうち1つはムウトの聖域であり、もうひとつは戦の神メンチュ、最後はアメン神のものである。神の父に捧げられた建物は、ファラオが自らの治世の栄光を証明するために命令した度重なる拡大と改築の賜物であった。巨大な中庭の中央にはタハルカ王の巨大な祠堂が立てられている。ブバスティスのポルティコ、セティ2世の神殿、トトメス3世とラメセス1世、2世の巨像群、134本の巨像の柱による列柱室、6つの記念碑的な塔門、花崗岩製の柱やオベリスク、宗教的儀式や軍事活動の場面を描いた部屋、両側に倉庫のある聖なる池、カバの女神オペト神に捧げられた神殿(オペト神がオシリス神を生んだといわれている場所に建てられた)、そして最後に南にある前門で、4つ入り口は浅浮き彫り、柱、オベリスクと巨像群によって飾られている。

ナイル川の対岸にはテーベの死の側面が何世紀にもわたって発展していった。およそ15世紀にわたり、巨大な葬祭殿が西岸の丘陵の麓に建てられた。葬祭殿は対応する墓と完全に分離されており、墓は背後の山に作られた(王家の谷)ことで、略奪、盗掘から守られていた。

よく知られているのはラメセス2世の巨大な葬祭殿であり、耕地際に位置していた。中庭、彫像、装飾、巨像群にあふれた聖所は多くの古代の著述家によって賞賛された。アメンヘテプ3世の葬祭殿で残っているのはメムノンの巨像で、石英の一枚岩から作られており、ファラオが玉座に座している姿を現している。

ファラオと高官、神官や王妃の墓は背後の山の奥深くに隠されており、アル・アサシーフ、アル・コーカ、クルナト・ムライ、デル・アル=メディーナ、王家の谷、王妃の谷などの巨大な墓域を形成している。王家の谷の岩窟墓の中で、イギリスのカーナボン卿とハワード・カーターは1922年に小さな墓を発見したが、やがてそれはエジプトでもっとも有名なものとなった。少年王ツタンカーメンの墓である。

世界遺産オンライン事典のページ
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(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00016en.html

世界遺産タンロン遺跡、泥水に沈む

ベトナム国会の建物の建設の影響で、世界遺産タンロン遺跡の城塞が破壊されてしまったと、ベトナムの考古学研究所が報じた。

遺跡の北側を保護してた壁の一部が崩壊し、遺跡が立地している土の層が破壊された模様。
泥水が国会建物の建設現場から溢れてきたため。

タンロン遺跡の重要な歴史的建造物が破壊され、さらに泥水に沈んでしまった。

タンロン遺跡は2003年に発掘がおこなわれ、ベトナムの諸王朝の貴重な遺物が数多く発見された。2010年の8月にはユネスコの世界遺産に登録されている。

考古学研究所は国会の建物の建設計画の担当者へ注意するように呼びかけたが、状況は改善されていないようである。
建設計画の責任者によれば、慎重に作業をしているが、事故は避けられなかったと主張している。

文化・スポーツ・観光庁大臣Hoang Tuan Anh氏は、4月7日の会合で庁が全面的に遺跡保存をサポートすることを確約した。

Thang Long Royal Citadel cracked and sunk

世界遺産オンライン事典 タンロン遺跡

2011年4月12日火曜日

世界遺産 ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟(カザフスタン共和国)

The Mausoleum of Khoja Ahmed Yasawi

ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟は中央アジアの文化と建築技術の発展を示す類まれな証拠である。ティムール朝期の主要な建築物のプロトタイプであり、ティムール朝期の建築史における重要なお手本となり、イスラム教建築の発展に大きく寄与した。

現代の町テュルキスタンの起源は中世初期にまでさかのぼる。最初は「ヤシ」という名前であり、農耕と牧畜文化の交差点であるシル・ダリア地域のシャブガルの近郊にあった。シャブガルは大きな工芸品製作と貿易の中心へと発展したが、12世紀にはヤシがシャブガル以上に重要性を増すようになった。アフメッド・ヤサウィの墓への巡礼もヤシの発展に貢献した要素である。1370年代に、ティムール(1336~1405年)が中央アジアの新たな支配者となり、メソポタミアからイラン、トランソシアナ(現在のウズベキスタン、タジキスタン、南西カザフスタン)まで支配下に置いた。ティムール帝国の首都はサマルカンドにあった。

ティムールの政策には、公共の記念碑的な建築物、宗教建造物(モスク、霊廟、マドラサ(学校、教育機関))を、シル・ダリアなど、支配地域内北部の開拓地における重要な前哨基地であった町に建設することがあった。その中に、ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟も含まれていた。

ティムールの望みはイスラムの教えを広めることでもあったが、政治的な目的でもあった。ホンジャ・アフメッド・ヤサウィは、12世紀のスーフィーの類まれな師であり、その廟は南カザフスタンにあるテュルキスタン(ヤシ)に位置している。霊廟は古代の町の北東部にある要塞がかつてあった場所に置かれており、現在この一帯は遺跡となっている。南は自然保護地域となっており、反対側は現在のテュルキスタンの町によって囲まれている。世界遺産としての物件は霊廟に限られている。バッファー・ゾーンは古代の町の遺跡地域全体をカバーしている。

霊廟は1389年から1399年の間に建設されており1405年のティムールの死まで続いた。廟の入口と内装のいくつかの部分は未完成のままになっており、結果としてその時代の建設工程を示す証拠となっている。16世紀には、霊廟は修復と表玄関の再構築が行われた。ボハラを統治していたアブドラ・ハーンによってアーチが修復された。この時代から19世紀までは、テュルキスタンはカザフ・ハーンの宮都であった。19世紀にはコーカンド・ハーン国によって霊廟は要塞にされ、日乾レンガで周囲に城壁を築いた。

ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟はティムール朝期の建築の中でも最大級のものである。付近には他にも建築物があり、歴史上の偉人の霊廟や小さなモスク、中世の浴場などがある。北側では、霊廟は後に再建された城壁によって現代の町と分けられている霊廟の建材は焼成レンガと石膏に粘土を混ぜた漆喰(ガンチ)が用いられている。基礎は粘土の層の上に建てられているが、近年はコンクリートによって補強されている。イワン(アーチ形の天井)による主玄関は南東にあり、中央アジアで最も大きいドーム(直径18.2m)を戴いた方形の主ホール「カザンディク」に通じている。このホールの中心には1399年に設置された儀式用の青銅製の大釜(カザン)がある。最も重要な場所であるホンジャ・アフメッド・ヤサウィの墓は、建物の中心軸上にあり、北西の建物の最奥部に位置している。この中心に棺が置かれている。

建物の中にはいくつかの役割を持つ場所がある。集会所、食堂(アシュ・カナ)、図書館(キターブ・カナ)、モスクなどである。モスクは最初の壁面装飾の一部が唯一残っている場所であり、明るい青色による幾何学模様と花柄模様の装飾である。ドームの内面はアラバスターの鍾乳石によって装飾されている(ムカルナス)。外装では、ティムール朝期の建築に特徴的な幾何学文様に装飾的碑文が書かれた陶器のタイルによって覆われている。

美しいクーフィー体(アラビア文字の書体の一種で、コーランを記述するのに用いられる)による碑文が壁に描かれ、ドームのドラムにはコーランにある文書が書かれいてる。霊廟は1405年のティムールの死によって未完成のまま残っており、今でも主玄関の表面の仕上げと当初計画されていた2つのミナレット(塔)がない状態である。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00750.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00741en.html

2011年4月11日月曜日

世界遺産 シバームの旧城壁都市(イエメン共和国)

Old Walled City of Shibam

シバームの旧城壁都市とワディ・ハドラマウトは人類の居住と土地利用の驚くべき事績であり、その住居建築はアラブ・イスラム世界における住居のきわめて特徴的な例である。

「砂漠のシカゴ」、「砂漠のマンハッタン」と呼ばれることもあり、歴史家、都市計画の専門家にとっては、旧都市シバームは垂直方向の建設の原理に厳密に基づいた、最初期の、そして最も完璧な都市の例と言えるだろう。

この都市は丘陵の上に建設されており、それによってワディ・ハドラマウトの洪水から逃れ、紀元後300年の先イスラム期の首都シャブワ崩壊後にこの地域の主要都市となることができた。
都市の平面はほとんど長方形の台形である。周りは土壁によって囲われており、その中に碁盤目状に区画された泥レンガ製の居住区がある。最も高い建築は8層建てであり、平均は5層である。

大半は16世紀以降のものであり、シバームを襲った1532年から1533年の大洪水の後である。しかしながら、いくつかの古い住居と大きな建築物はまだ残っている。イスラム時代の最初の世紀のもので、904年に建てられた金曜モスク、1220年に建設された城などがある。

そのほか、シバームにはいくつかのモスク、2つのスルタンの宮殿、一つの記念碑的な二重の門と500におよぶ独立した、あるいはグループになっている建築物群がある。しかし全ての建築物は同じ材質、つまり「土」によって建設されているのである。

2008年10月にはハドラマウト地方を襲った豪雨が原因で洪水が起こり、地盤が緩み一部の建物が倒壊するなどの被害が出た。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00120.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00126en.html

2011年4月7日木曜日

世界遺産 古都スクレ(ボリビア共和国)

Historic City of Sucre

スペイン様式の都市スクレの中心部は遺産の宝庫であり、ラテンアメリカにおいて在地の伝統とヨーロッパから輸入された様式が融合した建築群が、きわめてよい状態で保存されている。

スクレの古名はラ・プラタであり、ペドロ・デ・アンスレスによって1538年に設立された。スペインのコンキスタドール(征服者)、ゴンサロ・ピサロ(フランシスコ・ピサロの異母弟)はアンデス山脈コルジレラ山系の東側の高地に興味を持っており、鉱山の採掘活動を監督していた。活動の結果、建設されたのがラ・プラタである。1559年にはスペイン王フェリペ2世の命により東部の支配地域を運営するためにカラカス市が建設され、その本部がラ・プラタに置かれた。カラカスには司法と行政の中心となり、現在のパラグアイ、南西ペルー、チリ北部、アルゼンチンとボリビアの大半を統括していた。

スペイン様式の都市はシンプルな都市計画によってデザインされており、16世紀にスペイン人によってアメリカ地域に建設された都市と同様のものであった。近郊にあるポトシの豊富な鉱物資源はラ・プラタの経済的発見に影響しており、またラ・プラタは文化の中心であり、現在の最高裁判所の前身が置かれた。

1609年には大司教が鎮座するようになり、17世紀中にはラ・プラタはスペインの東世界における法的、宗教的、文化的中心となった。アメリカ人による初の独立要求も1809年にこの町で起こった。1825年8月には独立が宣言され、ボリビアとい名前で新し共和国が生まれた。同時にラ・プラタはスペイン支配から独立を勝ち取り、初代大統領となったアントニオ・ホセ・デ・スクレの名をもらって、「スクレ」という名前に改称された。

都市の歴史的中心地にある建築群は18世紀の在地の建築における特徴を有しており、同時代にポトシに建設されたものと似ている。18世紀末から19世紀のより近年の建築ではまだパティオ(中庭)を有しているが、スペインの大都市からもたらされた新古典様式を取り入れている。「自由の家」(ボリビアの独立宣言に署名した歴史的な場所)は、ボリビアを独立へと導いた出来事があった場所なので、国の最も重要な歴史的記念碑と考えられている。1621年にイエズス会の女子修道会の一部として建設された建物である。

一方で、多くの宗教的建造物がスペインの植民都市の始まりの記録となっている。その中には16世紀の移住者によって建てられた教会が含まれており、サン・ラザロ、サン・フランシスコ、サント・ドミンゴ、1559年に建設が始められ、250年後まで完成されなかったメトロポリタン大聖堂などがある。これらの建築物群はルネッサンス、バロック様式、メスティソ・バロック様式の特徴を示すものとなっている。サンタ・バーバラ教会はルネッサンス様式によるボリビア唯一の教会である。1887年に建設されたもので、内部の構造はネオ・ゴシック様式である。スクレの全ての教会は在地の建築の伝統とヨーロッパから輸入されたスタイルとの融合を描き出している。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00357.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00346en.html

6月にパリで世界遺産委員会を開催 日本からは3件

世界遺産の新規登録を決める国連教育科学文化機関(ユネスコ)の第35回世界遺産委員会が、6月19〜29日にパリで開催される予定。日本の暫定リストにある「小笠原諸島」、「平泉の文化遺産」、「国立西洋美術館本館」の3件が審査される。

開催地はバーレーンの予定だったが、反政府デモが続いているため、ユネスコ本部のあるパリに変更された。

ソース
http://kumanichi.com/news/kyodo/culture/201104/20110402003.shtml

2011年4月6日水曜日

世界遺産 バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(アフガニスタン・イスラム共和国)

Cultural Landscape and Archaeological Remains of the Bamiyan Valley

バーミヤン渓谷はカブールの西264kmにあり、アフガニスタンの中央高地のヒンドゥークシュ山脈の高い山々に囲まれている。渓谷は標高2500mで、バーミヤン川に沿っている。シルクロードの行路の1つとなっており、美しい景観は伝説的な彫像が伴っている。こうした側面がバーミヤン渓谷を宗教と文化の一大センターに発展させたことに貢献している。この渓谷に居住していた人々がおり、紀元前3世紀からは都市化している。

この遺産は8つの独立したコア・ゾーンから成っており、それぞれがバッファー・ゾーン(緩衝地帯)を有する。2つの磨崖仏がある渓谷の北側の崖、バーミヤン渓谷の南東3kmにあるカクラク渓谷の6~13世紀の石窟群、フラディ渓谷にある2つの重要な石窟群であるクオリ・アクラムとカライ・ガマイ、6~8世紀の城壁、塔、土で作られた要塞によって構成されるシャフリ・ズハクとカライ・カファリ、渓谷の中心にある丘陵上に建設された6~10世紀の要塞シャフリ・グルグラなどである。

バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群は、ガンダーラ仏教美術のさまざまな文化的影響を統合した、1世紀から13世紀までの古代バクトリアの美術的・宗教的発展をよく表している。遺産のエリアには多くの仏教の道院や聖域、さらにはイスラム教時代の城塞が含まれている。またこの遺産はタリバンによって2001年に行われ、世界中にショックを与えた2つの磨崖仏に対する痛ましい破壊活動の証拠ともなっている。

アフガニスタンはアケメネス朝ペルシャの属州として古代はバクトリアと呼ばれていた。この地域はその後アレキサンダー大王によって統治され、続いてセレウコス朝、北部インドのマウーリヤ朝によって支配された。遊牧民クシャン人は紀元前2世紀からこの地を支配しており、紀元後2世紀に絶頂期に達している。ササン朝はアフガニスタンを3世紀半ばより支配下に置いており、中央アジアの遊牧民は5世紀にこの地を支配した。ササン朝と西トルコ6世紀中ごろに勢力をのばした。シルクロードはアフガニスタンを横切っており、紀元後1世紀にインドからの仏教の拡散に貢献した。クシャン人は美術と宗教の後援者であり、ヘレニズムやササン朝の影響を受けたバクトリア様式の仏教美術の導入を促した。

イスラム美術・建築は11世紀にバーミヤンにもたらされ、その時の中央アフガニスタンの支配者はガズナ朝のスルタン・マフムード(998~1030年)であった。バーミヤンの町はイランのコラサン地域をモデルにしてデザインされていた。ホラズム・シャー朝では城塞化された町シャフリ・バーミヤン(後のグルグラ)、シャフリ・ズハク、シャフリ・コシャクが発展した。13世紀の初期にチンギス・ハンの軍隊はバーミヤンの町を破壊し、仏教の道院を略奪した。ムガル帝国皇帝アウラングゼーブ(1618~1707年)は巨大な石仏の足を打つよう軍隊に命じた。渓谷はその後放棄されたが、19世紀の終わりには、石窟に人が住み始め、家畜のシェルターとして利用されていた。1979年には、7000人以上がバーミヤンの町に居住していた。1970年代にこの地は軍隊に利用されている。1990年代には紛争にさらされることになり、2001年タリバンによって石仏が破壊されたのであった。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00745.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00733en.html

イスチグアラスト/タランパジャ自然公園群(アルゼンチン共和国)

Ischigualasto / Talampaya Natural Parks

タランパジャ自然公園と隣接するイスチグアラスト州立公園はアルゼンチン北西部のサン・ファン州とラ・リオハ州にまたがっている。イスチグアラスト・タランパジャ地域は中央アルゼンチンのシエラ・パンペアナス山脈の西の境界となっている砂漠地帯である。

遺産として登録されている地はイスチグアラストの堆積盆地のほぼ全体を占めている。盆地は、三畳紀(2億4500万年〜2億800万年前)の河川、湖沼、湿地で堆積した大陸性堆積物の層によって形成されている。堆積物には幅広い種類の植物や動物の化石を含んでおり、哺乳類の祖先や恐竜の化石もある。これらは世界で最も完全な三畳紀の大陸性の化石記録であり、脊椎動物の進化と生息していた環境を明らかにしてくれるものである。

この地域からは56属におよぶ脊椎動物の化石が記録されている。その中には魚、両生類、きわめて多種多様な爬虫類があり、哺乳類の直接の祖先も含まれている。化石の大半は地層の最上層にあり、ほとんど祖竜で構成されている。祖竜には、大型の草食動物や肉食動物、原始のワニ、ネズミの大きさの原始哺乳類があった。

河川の堆積は氾濫原の広い地域が含まれており、モンスーン型の嵐による洪水の痕跡が残っている。湖沼や湿地の堆積には大量の植物化石があり、いくつかは炭層を形成し、そのほかはミイラ化した状態で保存されている。ミイラ化した植物化石は限られた地域にしか見られない、きわめてまれな保存の状態である。6つの地層が三畳紀の盆地を形成しており、そのうちの最初のものは赤色砂岩のものでタランパジャ国立公園の壮大な丘陵を形成している。そのほかの地層は湖底、湿地、支流、氾濫原の堆積である。これらの地層は莫大な量の脊椎動物と植物の化石が含まれている。

今日では、イスチグアラスト/タランパジャは耐乾性の潅木やサボテンによって特徴づけられるまばらな砂漠の植生を有している。動物相はアルゼンチン西部の乾燥地域の典型的なもので、その中にはアンデスコンドル、チェストナット・カナステーロ、サンディー・ガリート、ピューマ、グアナコ、マラ、ビスカッチャなど、固有種や国内での絶滅が危惧されている種あるいは文化的に重要な種などが含まれている。

スペインによる征服以前は、この地域にはいくつかのアボリジニの集団が住み着いており、通常半遊牧の狩猟採集民であった。イスチグアラスト/タランパジャでは、岩絵や遺跡、遺物の詳細な研究が近年になってはじめられたばかりだが、その文化的な価値はきわめて高いといえる。遺産はインカ帝国の領域の最南に位置している。タランパジャでは、多くの遺跡が出土しており、アクセスも容易である。イスチグアラストでは、岩絵のある6つの遺跡が発見された。加えて、洞窟や岩陰住居や墓地、キャンプ、道具製作跡も確認されている。

世界遺産オンライン事典のページ
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