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2010年7月24日土曜日

グレート・ジンバブエ遺跡


グレート・ジンバブエ遺跡(大ジンバブエ国立記念物)は、ジンバブエ共和国の首都ハラレから南方300kmのジンバブエ高原の南端、サビ川の上流の標高約1000mに位置する大規模な石造建築遺跡の名称である。ジンバブエとは、ショナ語で、首長、王の宮廷の意味を含んだ「石の家」という一般語であるため、特定して最も大規模で著名なこの遺跡を指すときは、語頭に「グレート」を付けるのが慣例となっている。

推定面積は、周囲の集落を含めると東西1.5km、南北1.5kmの約 2km²に及ぶと考えられている。この遺跡での人類の居住は紀元前2500年頃から始まったと考えられているが、インド洋との交易ルートの中継地として9 世紀頃から発展し、今も確認できる大多数の遺跡はこの時期に建てられたと考えられている。遺跡からは、元、明代の中国の陶磁器なども発見されている。15 世紀後半頃にグレート・ジンバブエは放棄されたようであり、その原因として交易ルートが変更されたことによる経済的な問題や、気候変化などが挙げられている。

遺跡の中心部にある石造建築物群は、50世帯近くに及ぶジンバブエの王ないし首長の一族のために築かれたもので、直方体の花崗岩のブロックを積み上げた円ないし楕円形の建物の組み合わせであって、個々にエンクロージャー(囲壁)と呼ばれている。石造建築エンクロージャー群は、おおきく三つに分けられ、北側に通称「アクロポリス」、又は「丘上廃墟」と呼ばれる建造物群、その南方に広がる「谷の遺跡」、そして最も有名な「大囲壁」(グレートエンクロージャー)に分けられる。

グレート・ジンバブエ遺跡の解釈には、19~20世紀の人種差別問題が色濃くにじみ出ている。
19 世紀のずさんな発掘調査では、薄弱な根拠から石積みによるエンクロージャーなどの優れた建築物は、現地アフリカの人々ではなく、西アジアやアラブの人々の手によって建設されたものであり、アフリカ人によって衰退した、という説が唱えられた。その背景には、白人が至上の存在であり、黒人は退廃の象徴であるとする人種差別が背景にあったことは想像に難くない。

20世紀に入り、デイヴィッド・ランダル・マッキーヴァー、ガートルード・ケイトン=トンプソンなどの考古学者の手によって、緻密な発掘調査が行われ(両者はエジプトでの発掘調査でも有名)、ケイトン=トンプソンはグレート・ジンバブエを築いたのがこの地に住んでいたアフリカ人であり、彼らが優れた技術・文化を有していたことを主張した。当然、これについては白人側から大きな批判を受けたようである。当時のローデシア政府はアフリカ人のナショナリズムを鼓舞する象徴としてグレート・ジンバブエが取り上げられることを恐れ、公式的には「謎につつまれている」という見解を表明していた。

しかし、1980年のロバート・ムガベによる黒人多数政権の台頭によって、こうした学術的な成果が受け入れられるようになっていったのである。

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