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2011年4月14日木曜日

世界遺産 アブ・メナ(エジプト)

アブ・メナはアレキサンドリアの南、ワディ・ナトルーンとアレキサンドリアの間に位置している。この初期のキリスト教による聖なる町の教会、洗礼堂、バシリカ(初期キリスト教の礼拝建築、中央の身廊の周囲に側廊があり、両者は列柱によって別けられる)、公共の建築物、通り、修道院、住居、工房は、紀元後296年に死去した殉教者アレキサンドリアのメナスの墓の上に建てられている。

3世紀に建設された修道院はアレキサンドリアの戦士メナスを追悼するものであり、メナスはディオクレティアヌスの軍隊の士官であった。
メナスは軍隊が勝利を収めた後、いかなるキリスト教徒をも殺すのを拒否した。彼は自分がキリスト教徒であることを公言しており、それが他のキリスト教徒達が苦難とディオクレティアヌスの軍隊からの虐待に耐える絶大な心の支えとなった。彼の遺体はフリジアからラクダに乗せて戻され、ラクダがこれ以上歩けなくなったところに埋葬されたという伝説がある。その地には砂漠の中でも水が生まれ、ブドウとオリーブの木に埋め尽くされており、聖メナスのブドウ園として知られることとなった。

1900年頃から考古学的な発掘が実施され、アブ・メナが5世紀から6世紀に急速に発展していったことが分かった。600年にはオアシスが巨大なバシリカを中心に据えた巡礼都市となった。発掘によって居住区と墓域を含めた町の全体像が明らかになった。壺を作成していた陶工の工房、販売所や、壺、ランプ、玩具までも確認されている。

増加するキリスト教の巡礼者を受け入れるために、5世紀には温泉バシリカが建設され、バシリカの周りにある風呂やプールの水に湯治のための水が貯められていた。巡礼者達はアンプラと呼ばれるフラスコ型の小さな土器の壺にバシリカの水を入れていった。壺には、2頭のひざまつくラクダの間に立つ殉教者を描いた、聖メナスの印が押された。5世紀から6世紀の間は、多くの建築物が温泉バシリカの周囲に建てられ、その中には北側の修道院もあった。

アルカディウスのバシリカは5世紀に建設され、アレキサンドリアのすぐ南にあるカルム・アブ・メナスの美しい建築複合体の中心となっている。屋根は56本の大理石の柱によって支えられている。洗礼堂はこのバシリカの西端に位置しており、角が半円形となっていて、多彩色の大理石の壁龕がある。コプト教徒の記念碑的建造物で、古代のキリスト教建築のこうした要素を備えているものとしては、これが唯一のものである。教会はバシリカの西側にあり、エジプトとビザンツ建築の強い影響を受けている。

聖メナスは東西で最もよく知られた聖人と考えられている。これは、数多くのアンプラが世界中の様々な場所から発見されていることからでも明らかであり、ドイツのハイデルベルグやイタリアのミラン、ユーゴスラビア、フランスのマルセイユ、スーダンのデンゲラ、イェルサレムなどで見つかっている。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00015.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00013en.html

2010年7月24日土曜日

メテオラ


メテオラはギリシア北西部、テッサリア地方北端の奇岩群とその上に建設された修道院共同体の総称。ギリシア語で「中空の」を意味する「メテオロス」という言葉に由来している。その名前のごとく、高さ数百メートルもある巨岩の上に立つ修道院は、まるで空中に浮いているかのように見える。

メテオラの険しい地形は、俗世との関わりを断ち、祈りと瞑想に生きるキリスト教の修道士にとっては理想の環境と見なされ、9世紀には既にこの奇岩群に穿たれた洞穴や岩の裂け目に修道士が住み着いていたが、当初は現在のような修道院共同体を形成する事はなかった。

しかし、14世紀にセルビア王国がテッサリアへ勢力を拡大し、東ローマ帝国で修道院活動の中心を担っていたアトス山は、セルビア領の中に組み込まれた。当時、戦乱を避けて多くの修道士がアトスを出てメテオラに住み着くようになった。この時期にメタモルフォシス修道院(顕栄修道院、変容修道院、主の顕栄祭を記憶する修道院)が創立され、アトス式の共同体様式が導入されることで、修道院共同体が確立していった。

14世紀の末には、テッサリアはオスマン帝国によって併合された。イスラム教徒による支配ではあったが、オスマン朝はメテオラの修道院の活動を保証したため、修道活動は継続されている。16世紀には「クレタ派」とイコンの流派がこの地でも活動し、現在も数多くのフレスコ画が残されている。

19世紀には露土戦争後にギリシア領に編入されている。その後も修道活動が続けられているが、その風光明媚な概観から、観光地として人気を博するようになった。しかしながら、メテオラはもともと俗世との関わりを断つためにわざわざ険しい環境に建てられているのであり、観光地化、大衆化とは本来相容れないもののはずだ。世界遺産に登録されたことがかえって、メテオラの価値を落としめることにもつながる結果になってしまうという、近代特有の難しい問題をはらんでいる。

いずれにせよ、このような険しい環境にあれだけの修道院を建立し、生活するには数多の困難があっただろう。それでも俗世とのかかわりを避けるために耐え、自らに苦行を強いる姿、そのパワーには畏敬の念を禁じえない。

世界遺産オンライン事典のページ