2011年4月19日火曜日
メンフィスとその墓地遺跡-ギザからダハシュールまでのピラミッド地帯
メンフィスの遺跡群は偉大な文明の壮大な歴史的建造物にあふれている。サッカラにある階段ピラミッドは、規則的に切り出された石灰岩で建造されており、このタイプの建築物の中では最古の例として知られている。ギザでは、最古級の船の内の1つ、太陽の船が現在も残っており、クフ王のピラミッド複合体の近くで手つかずの状態で発見されたものである。サッカラはエジプトの中でも古い墓地遺跡があり、ファラオによる文明の形成期にあたる時代まで遡る。これらの建造物に対する人々の並はずれた歴史的、芸術的、社会学的興味は、古代エジプトが地球上で最も輝かしい文明の1つであった証拠と言えるだろう。
エジプトの古王国時代の首都であったメンフィス地域には、岩窟墓、華麗なマスタバ、神殿、ピラミッドなど、途方もない量の葬祭に関する建造物がある。古代では、ピラミッドは世界の七不思議の1つに数えられていた。
エジプト統一王朝の最初の統治者はメネスまたはナルメルであり、ナイルデルタの近くに新たな首都建設を命じた。メネスの町、メンネフェルまたはフウト・カー・プタハ(プタハ神の魂の住まう所)と呼ばれ、ろくろで人間を作り出す羊の頭をした工人の姿で表される創造神プタハのための、最も重要な聖域であった。壮大な町メンフィスは古代ギリシア人にも知られているが、今日残っているのはプタハ神殿のわずかな残りであり、ここからはファラオや偉人達を描いた奉納のための彫像や、記念碑的なネクロポリスが発見された。
サッカラのネクロポリスは首都に最も近く、またエジプトでも最大で、最初の石製の大ピラミッドが位置している。この墓は第3王朝の最初の王ジェセルによって建設された。ピラミッドは前身となっている墓の上に建てられたものである。前身の墓は大きな直方体であり、壁はわずかに内側に傾き、天井は平坦で、一般的にマスタバという名前で知られている。ピラミッドは、良質の石灰岩を用いて10mに及ぶ高さのある外壁に覆われた葬祭複合体の中に位置している。外壁には14の石製の偽扉があり、柱の列に挟まれた廊から成る巨大な入口を有する。入口は王位更新祭が行われたとされている。広場に通じている。広場の一つの側面には階段状の台があれ、そこにファラオの玉座が作られている。台の東と西には祭壇が築かれている。
第4王朝の最初の王、スネフェルは墓の構造を変化させ、現在一般的によく知られているピラミッドの形式を採用した。ダハシュールのネクロポリスには赤ピラミッドが建てられた。この名前は、ピラミッドに使用されていた石灰岩が赤みを帯びた色をしていることからつけられた。その南には途中で傾斜の角度が変わっている屈折ピラミッドが築かれており、この屈曲はピラミッドの発展過程の中間的要素を示している。
スネフェルの次の王位は、息子のクフへと引き継がれ、次いでカフラー、メンカウラーとなり、この3人のファラオがギザに大ピラミッドを築いた。ピラミッドは太陽、大いなる神ラーのシンボルであり、その信仰は第4王朝から突出したものとなった。古王国時代の末に位置づけられるピラミッドの玄室に書かれたピラミッド・テキストには、亡き王が太陽となる記述がみられる。
最も大きいクフ王のピラミッドには「クフの地平線」という名前がつけられていた。入口は北側の中央にある。内部には狭い回廊があり、二手にわかれている。1つはピラミッドの下にある岩盤を掘り抜いて作られた部屋に通じており、もう1つは「女王の間」と呼ばれる小さな部屋に通じており、この道からさらに大回廊と大きな「王の間」へと通じている。
残り2つのピラミッドはそれぞれ「カフラーは偉大なり」と「メンカウラーは神聖なり」と古代に呼ばれていた。それぞれの墓はスネフェルの命によって最初に作られた葬祭複合体の一部を形成している。
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2011年4月17日日曜日
世界遺産 カイロ歴史地区
カイロの歴史的中心地区は、中世におけるこの都市の政治的、戦略的、知的、商業的レベルでの国際的重要性を示す、顕著な物質的証拠である。古い町並みにあふれている点で、カイロに並ぶ都市は世界でもほとんどない。カイロの東岸にある歴史地区は7世紀から20世紀までの、600に及ぶ歴史的建造物があり、良好な保存状態で、各所にちらばって都市を構成しており、中世に遡る人々の居住の様相をよく表している。
イスラム教の創設者、預言者ムハンマドの死去後の7世紀に、アラブの軍隊はすさまじい速さで隣国に兵を進めた。640年にはカリフ・オマルの軍隊がナイル川へ到達し、バビロンを占領、その真向かいに城壁に囲まれた彼自身の都アル=フスタートを建設した。そこにカリフはメディナの預言者のモスクを建てた。シンプルな中庭が日乾レンガの壁体によって囲まれ、イスラム教のエッセンスを体現しており、飾り気がなくほとんど軍事的性格を帯びていた。
アッバース朝が支配した時期には、アル=フスタートは徐々にその重要性が低下していき、
北の郊外にあるアル=アスカルに取って代わられた。この町は軍隊の駐屯地で、統治者の宮殿や住居、商店、モスクなどの建物が徐々に集まっていった。
870年には新たな支配者アハマド・イブン・トゥールーンが、エジプトをアッバース朝のカリフ支配から独立させ、北東地域に荘厳な首都、アル=カタイを新たに建設した。この町はアッバース朝が再びエジプトを支配下に置いた10世紀に破壊されてしまった。イブン・トゥールーンの大モスクは破壊を免れた。このモスクには教育の場であった列柱に囲まれた巨大な中庭があり、壮大な装飾の丸アーチが用いられていた。デザインはおそらくイラクの職人によって行われており、現在でもカイロの中で特に見事な記念碑となっている。
カイロの栄光の時代は10世紀末に始まる。このときエジプトは強大なシーア派のイスラム王朝、ファーティマ朝によって征服され、新しい首都が建設されることになった。969年に都市アル=カーヒラが建設され、首都の中心には中央政府の建築物イマームが建っており、2つのファーティマ朝の王宮があったが、今では残っていない。
現在のアル=アズハルの一画では、その他のファーティマ朝の記念碑的建造物が残っており、3つの大きな門、市の外壁の巨大な塔、5つのモスクなどがある。これらの中で、アル=ハキーム・モスクは軍事モスクの最後の例である。小型で簡素な建物で、広い開放的な中庭と壁体が付属しており、強大な権力による中世の建築物である。アル=アズハル・モスクはカリフ・ムイッズのもと、970年から972年にかけて建設されており、聖域として、または集会所としての役割を果たしていた。このモスクには大学もあり、イスラム研究の重要な中心地となった。現在の外観は、ペルシャ様式のアーチを持つ柱廊を持ち、装飾された門、巨大な祈祷者のためのホール、レースのように彫りこまれた石で装飾された、さまざまな形のミナレットなどがあり、一連の装飾計画に基づいている。
セルジューク・トルコの侵入と十字軍による攻撃の後、エジプトは1172年にアイユーブ朝の創立者サラディンによって支配された。カイロのもっとも輝かしい時代はアイユーブ朝に代わって出現したマムルーク朝の時代であり、1257年まで権勢をほこっていた。最初のマムルーク朝のモスクは1266年にスルタン・バイバルスによって建設され、巨大なドームを有していた。スルタン・ハサン7世が建設を命じたマンドラサ・モスクは1356年から1363年のものである。この印象的な建築物は、中庭を中心に十字型の平面形をしており、儀礼的沐浴のための噴水を持つ優雅な分館はピラミッドの石材を大々的に利用して建設された。厳かで巨大な建築の外観は、天に伸びるドームと4つのうち1つが残っているミナレットによってバランスがとられている。また、宗教的な建築物に加えて、スルタンは町の東側にある広大な墓地「死者の町」に壮大な霊廟を築いた。
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2011年4月14日木曜日
世界遺産 アブ・メナ(エジプト)
3世紀に建設された修道院はアレキサンドリアの戦士メナスを追悼するものであり、メナスはディオクレティアヌスの軍隊の士官であった。
メナスは軍隊が勝利を収めた後、いかなるキリスト教徒をも殺すのを拒否した。彼は自分がキリスト教徒であることを公言しており、それが他のキリスト教徒達が苦難とディオクレティアヌスの軍隊からの虐待に耐える絶大な心の支えとなった。彼の遺体はフリジアからラクダに乗せて戻され、ラクダがこれ以上歩けなくなったところに埋葬されたという伝説がある。その地には砂漠の中でも水が生まれ、ブドウとオリーブの木に埋め尽くされており、聖メナスのブドウ園として知られることとなった。
1900年頃から考古学的な発掘が実施され、アブ・メナが5世紀から6世紀に急速に発展していったことが分かった。600年にはオアシスが巨大なバシリカを中心に据えた巡礼都市となった。発掘によって居住区と墓域を含めた町の全体像が明らかになった。壺を作成していた陶工の工房、販売所や、壺、ランプ、玩具までも確認されている。
増加するキリスト教の巡礼者を受け入れるために、5世紀には温泉バシリカが建設され、バシリカの周りにある風呂やプールの水に湯治のための水が貯められていた。巡礼者達はアンプラと呼ばれるフラスコ型の小さな土器の壺にバシリカの水を入れていった。壺には、2頭のひざまつくラクダの間に立つ殉教者を描いた、聖メナスの印が押された。5世紀から6世紀の間は、多くの建築物が温泉バシリカの周囲に建てられ、その中には北側の修道院もあった。
アルカディウスのバシリカは5世紀に建設され、アレキサンドリアのすぐ南にあるカルム・アブ・メナスの美しい建築複合体の中心となっている。屋根は56本の大理石の柱によって支えられている。洗礼堂はこのバシリカの西端に位置しており、角が半円形となっていて、多彩色の大理石の壁龕がある。コプト教徒の記念碑的建造物で、古代のキリスト教建築のこうした要素を備えているものとしては、これが唯一のものである。教会はバシリカの西側にあり、エジプトとビザンツ建築の強い影響を受けている。
聖メナスは東西で最もよく知られた聖人と考えられている。これは、数多くのアンプラが世界中の様々な場所から発見されていることからでも明らかであり、ドイツのハイデルベルグやイタリアのミラン、ユーゴスラビア、フランスのマルセイユ、スーダンのデンゲラ、イェルサレムなどで見つかっている。
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2011年4月13日水曜日
古代都市テーベとその墓地遺跡
テーベは古代エジプトの歴史、美術、宗教に関する最も優れた遺跡があり、古代エジプトの絶頂期に首都だった町である。
ファラオからローマ皇帝まで、何百もの統治者が町の建築物やオベリスク、彫像を建設した。
中王国時代から古代の終わりまで、この都市は至上の太陽神アメンの神聖な土地であった。比類ない豪華さと巨大さを持つ神殿群がこの神にささげられた。アメンヘテプ3世とラメセス2世によって建てられたルクソール神殿はカルナックの聖域とスフィンクスの列に囲まれた参道でつながっており、2つの赤色花崗岩製のオベリスクが建てられた入り口へと続いている。
ルクソール神殿の入り口はシリアやヒッタイトへの軍事遠征の場面によって飾られており、ラメセス2世によって立てられた巨大な中庭と聖船を安置するためのチャペルに続いている。聖船は父なるアメン神、ハゲワシもしくはライオンの姿で現された母なるムウト神、その子で月の神コンスの3柱神に捧げられていた。第2の構造は、アメンヘテプ3世によって立てられた巨大な塔門と列柱廊、中庭、高い柱を持つホールになっている。
ルクソール神殿から3km北には、記念碑の複合体であるカルナックがあり、3つの神殿によって構成されている。そのうち1つはムウトの聖域であり、もうひとつは戦の神メンチュ、最後はアメン神のものである。神の父に捧げられた建物は、ファラオが自らの治世の栄光を証明するために命令した度重なる拡大と改築の賜物であった。巨大な中庭の中央にはタハルカ王の巨大な祠堂が立てられている。ブバスティスのポルティコ、セティ2世の神殿、トトメス3世とラメセス1世、2世の巨像群、134本の巨像の柱による列柱室、6つの記念碑的な塔門、花崗岩製の柱やオベリスク、宗教的儀式や軍事活動の場面を描いた部屋、両側に倉庫のある聖なる池、カバの女神オペト神に捧げられた神殿(オペト神がオシリス神を生んだといわれている場所に建てられた)、そして最後に南にある前門で、4つ入り口は浅浮き彫り、柱、オベリスクと巨像群によって飾られている。
ナイル川の対岸にはテーベの死の側面が何世紀にもわたって発展していった。およそ15世紀にわたり、巨大な葬祭殿が西岸の丘陵の麓に建てられた。葬祭殿は対応する墓と完全に分離されており、墓は背後の山に作られた(王家の谷)ことで、略奪、盗掘から守られていた。
よく知られているのはラメセス2世の巨大な葬祭殿であり、耕地際に位置していた。中庭、彫像、装飾、巨像群にあふれた聖所は多くの古代の著述家によって賞賛された。アメンヘテプ3世の葬祭殿で残っているのはメムノンの巨像で、石英の一枚岩から作られており、ファラオが玉座に座している姿を現している。
ファラオと高官、神官や王妃の墓は背後の山の奥深くに隠されており、アル・アサシーフ、アル・コーカ、クルナト・ムライ、デル・アル=メディーナ、王家の谷、王妃の谷などの巨大な墓域を形成している。王家の谷の岩窟墓の中で、イギリスのカーナボン卿とハワード・カーターは1922年に小さな墓を発見したが、やがてそれはエジプトでもっとも有名なものとなった。少年王ツタンカーメンの墓である。
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2011年4月12日火曜日
世界遺産 ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟(カザフスタン共和国)
ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟は中央アジアの文化と建築技術の発展を示す類まれな証拠である。ティムール朝期の主要な建築物のプロトタイプであり、ティムール朝期の建築史における重要なお手本となり、イスラム教建築の発展に大きく寄与した。
現代の町テュルキスタンの起源は中世初期にまでさかのぼる。最初は「ヤシ」という名前であり、農耕と牧畜文化の交差点であるシル・ダリア地域のシャブガルの近郊にあった。シャブガルは大きな工芸品製作と貿易の中心へと発展したが、12世紀にはヤシがシャブガル以上に重要性を増すようになった。アフメッド・ヤサウィの墓への巡礼もヤシの発展に貢献した要素である。1370年代に、ティムール(1336~1405年)が中央アジアの新たな支配者となり、メソポタミアからイラン、トランソシアナ(現在のウズベキスタン、タジキスタン、南西カザフスタン)まで支配下に置いた。ティムール帝国の首都はサマルカンドにあった。
ティムールの政策には、公共の記念碑的な建築物、宗教建造物(モスク、霊廟、マドラサ(学校、教育機関))を、シル・ダリアなど、支配地域内北部の開拓地における重要な前哨基地であった町に建設することがあった。その中に、ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟も含まれていた。
ティムールの望みはイスラムの教えを広めることでもあったが、政治的な目的でもあった。ホンジャ・アフメッド・ヤサウィは、12世紀のスーフィーの類まれな師であり、その廟は南カザフスタンにあるテュルキスタン(ヤシ)に位置している。霊廟は古代の町の北東部にある要塞がかつてあった場所に置かれており、現在この一帯は遺跡となっている。南は自然保護地域となっており、反対側は現在のテュルキスタンの町によって囲まれている。世界遺産としての物件は霊廟に限られている。バッファー・ゾーンは古代の町の遺跡地域全体をカバーしている。
霊廟は1389年から1399年の間に建設されており1405年のティムールの死まで続いた。廟の入口と内装のいくつかの部分は未完成のままになっており、結果としてその時代の建設工程を示す証拠となっている。16世紀には、霊廟は修復と表玄関の再構築が行われた。ボハラを統治していたアブドラ・ハーンによってアーチが修復された。この時代から19世紀までは、テュルキスタンはカザフ・ハーンの宮都であった。19世紀にはコーカンド・ハーン国によって霊廟は要塞にされ、日乾レンガで周囲に城壁を築いた。
ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟はティムール朝期の建築の中でも最大級のものである。付近には他にも建築物があり、歴史上の偉人の霊廟や小さなモスク、中世の浴場などがある。北側では、霊廟は後に再建された城壁によって現代の町と分けられている霊廟の建材は焼成レンガと石膏に粘土を混ぜた漆喰(ガンチ)が用いられている。基礎は粘土の層の上に建てられているが、近年はコンクリートによって補強されている。イワン(アーチ形の天井)による主玄関は南東にあり、中央アジアで最も大きいドーム(直径18.2m)を戴いた方形の主ホール「カザンディク」に通じている。このホールの中心には1399年に設置された儀式用の青銅製の大釜(カザン)がある。最も重要な場所であるホンジャ・アフメッド・ヤサウィの墓は、建物の中心軸上にあり、北西の建物の最奥部に位置している。この中心に棺が置かれている。
建物の中にはいくつかの役割を持つ場所がある。集会所、食堂(アシュ・カナ)、図書館(キターブ・カナ)、モスクなどである。モスクは最初の壁面装飾の一部が唯一残っている場所であり、明るい青色による幾何学模様と花柄模様の装飾である。ドームの内面はアラバスターの鍾乳石によって装飾されている(ムカルナス)。外装では、ティムール朝期の建築に特徴的な幾何学文様に装飾的碑文が書かれた陶器のタイルによって覆われている。
美しいクーフィー体(アラビア文字の書体の一種で、コーランを記述するのに用いられる)による碑文が壁に描かれ、ドームのドラムにはコーランにある文書が書かれいてる。霊廟は1405年のティムールの死によって未完成のまま残っており、今でも主玄関の表面の仕上げと当初計画されていた2つのミナレット(塔)がない状態である。
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2011年4月11日月曜日
世界遺産 シバームの旧城壁都市(イエメン共和国)
シバームの旧城壁都市とワディ・ハドラマウトは人類の居住と土地利用の驚くべき事績であり、その住居建築はアラブ・イスラム世界における住居のきわめて特徴的な例である。
「砂漠のシカゴ」、「砂漠のマンハッタン」と呼ばれることもあり、歴史家、都市計画の専門家にとっては、旧都市シバームは垂直方向の建設の原理に厳密に基づいた、最初期の、そして最も完璧な都市の例と言えるだろう。
この都市は丘陵の上に建設されており、それによってワディ・ハドラマウトの洪水から逃れ、紀元後300年の先イスラム期の首都シャブワ崩壊後にこの地域の主要都市となることができた。
都市の平面はほとんど長方形の台形である。周りは土壁によって囲われており、その中に碁盤目状に区画された泥レンガ製の居住区がある。最も高い建築は8層建てであり、平均は5層である。
大半は16世紀以降のものであり、シバームを襲った1532年から1533年の大洪水の後である。しかしながら、いくつかの古い住居と大きな建築物はまだ残っている。イスラム時代の最初の世紀のもので、904年に建てられた金曜モスク、1220年に建設された城などがある。
そのほか、シバームにはいくつかのモスク、2つのスルタンの宮殿、一つの記念碑的な二重の門と500におよぶ独立した、あるいはグループになっている建築物群がある。しかし全ての建築物は同じ材質、つまり「土」によって建設されているのである。
2008年10月にはハドラマウト地方を襲った豪雨が原因で洪水が起こり、地盤が緩み一部の建物が倒壊するなどの被害が出た。
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2011年4月7日木曜日
世界遺産 古都スクレ(ボリビア共和国)
スペイン様式の都市スクレの中心部は遺産の宝庫であり、ラテンアメリカにおいて在地の伝統とヨーロッパから輸入された様式が融合した建築群が、きわめてよい状態で保存されている。
スクレの古名はラ・プラタであり、ペドロ・デ・アンスレスによって1538年に設立された。スペインのコンキスタドール(征服者)、ゴンサロ・ピサロ(フランシスコ・ピサロの異母弟)はアンデス山脈コルジレラ山系の東側の高地に興味を持っており、鉱山の採掘活動を監督していた。活動の結果、建設されたのがラ・プラタである。1559年にはスペイン王フェリペ2世の命により東部の支配地域を運営するためにカラカス市が建設され、その本部がラ・プラタに置かれた。カラカスには司法と行政の中心となり、現在のパラグアイ、南西ペルー、チリ北部、アルゼンチンとボリビアの大半を統括していた。
スペイン様式の都市はシンプルな都市計画によってデザインされており、16世紀にスペイン人によってアメリカ地域に建設された都市と同様のものであった。近郊にあるポトシの豊富な鉱物資源はラ・プラタの経済的発見に影響しており、またラ・プラタは文化の中心であり、現在の最高裁判所の前身が置かれた。
1609年には大司教が鎮座するようになり、17世紀中にはラ・プラタはスペインの東世界における法的、宗教的、文化的中心となった。アメリカ人による初の独立要求も1809年にこの町で起こった。1825年8月には独立が宣言され、ボリビアとい名前で新し共和国が生まれた。同時にラ・プラタはスペイン支配から独立を勝ち取り、初代大統領となったアントニオ・ホセ・デ・スクレの名をもらって、「スクレ」という名前に改称された。
都市の歴史的中心地にある建築群は18世紀の在地の建築における特徴を有しており、同時代にポトシに建設されたものと似ている。18世紀末から19世紀のより近年の建築ではまだパティオ(中庭)を有しているが、スペインの大都市からもたらされた新古典様式を取り入れている。「自由の家」(ボリビアの独立宣言に署名した歴史的な場所)は、ボリビアを独立へと導いた出来事があった場所なので、国の最も重要な歴史的記念碑と考えられている。1621年にイエズス会の女子修道会の一部として建設された建物である。
一方で、多くの宗教的建造物がスペインの植民都市の始まりの記録となっている。その中には16世紀の移住者によって建てられた教会が含まれており、サン・ラザロ、サン・フランシスコ、サント・ドミンゴ、1559年に建設が始められ、250年後まで完成されなかったメトロポリタン大聖堂などがある。これらの建築物群はルネッサンス、バロック様式、メスティソ・バロック様式の特徴を示すものとなっている。サンタ・バーバラ教会はルネッサンス様式によるボリビア唯一の教会である。1887年に建設されたもので、内部の構造はネオ・ゴシック様式である。スクレの全ての教会は在地の建築の伝統とヨーロッパから輸入されたスタイルとの融合を描き出している。
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2011年4月6日水曜日
世界遺産 バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(アフガニスタン・イスラム共和国)
バーミヤン渓谷はカブールの西264kmにあり、アフガニスタンの中央高地のヒンドゥークシュ山脈の高い山々に囲まれている。渓谷は標高2500mで、バーミヤン川に沿っている。シルクロードの行路の1つとなっており、美しい景観は伝説的な彫像が伴っている。こうした側面がバーミヤン渓谷を宗教と文化の一大センターに発展させたことに貢献している。この渓谷に居住していた人々がおり、紀元前3世紀からは都市化している。
この遺産は8つの独立したコア・ゾーンから成っており、それぞれがバッファー・ゾーン(緩衝地帯)を有する。2つの磨崖仏がある渓谷の北側の崖、バーミヤン渓谷の南東3kmにあるカクラク渓谷の6~13世紀の石窟群、フラディ渓谷にある2つの重要な石窟群であるクオリ・アクラムとカライ・ガマイ、6~8世紀の城壁、塔、土で作られた要塞によって構成されるシャフリ・ズハクとカライ・カファリ、渓谷の中心にある丘陵上に建設された6~10世紀の要塞シャフリ・グルグラなどである。
バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群は、ガンダーラ仏教美術のさまざまな文化的影響を統合した、1世紀から13世紀までの古代バクトリアの美術的・宗教的発展をよく表している。遺産のエリアには多くの仏教の道院や聖域、さらにはイスラム教時代の城塞が含まれている。またこの遺産はタリバンによって2001年に行われ、世界中にショックを与えた2つの磨崖仏に対する痛ましい破壊活動の証拠ともなっている。
アフガニスタンはアケメネス朝ペルシャの属州として古代はバクトリアと呼ばれていた。この地域はその後アレキサンダー大王によって統治され、続いてセレウコス朝、北部インドのマウーリヤ朝によって支配された。遊牧民クシャン人は紀元前2世紀からこの地を支配しており、紀元後2世紀に絶頂期に達している。ササン朝はアフガニスタンを3世紀半ばより支配下に置いており、中央アジアの遊牧民は5世紀にこの地を支配した。ササン朝と西トルコ6世紀中ごろに勢力をのばした。シルクロードはアフガニスタンを横切っており、紀元後1世紀にインドからの仏教の拡散に貢献した。クシャン人は美術と宗教の後援者であり、ヘレニズムやササン朝の影響を受けたバクトリア様式の仏教美術の導入を促した。
イスラム美術・建築は11世紀にバーミヤンにもたらされ、その時の中央アフガニスタンの支配者はガズナ朝のスルタン・マフムード(998~1030年)であった。バーミヤンの町はイランのコラサン地域をモデルにしてデザインされていた。ホラズム・シャー朝では城塞化された町シャフリ・バーミヤン(後のグルグラ)、シャフリ・ズハク、シャフリ・コシャクが発展した。13世紀の初期にチンギス・ハンの軍隊はバーミヤンの町を破壊し、仏教の道院を略奪した。ムガル帝国皇帝アウラングゼーブ(1618~1707年)は巨大な石仏の足を打つよう軍隊に命じた。渓谷はその後放棄されたが、19世紀の終わりには、石窟に人が住み始め、家畜のシェルターとして利用されていた。1979年には、7000人以上がバーミヤンの町に居住していた。1970年代にこの地は軍隊に利用されている。1990年代には紛争にさらされることになり、2001年タリバンによって石仏が破壊されたのであった。
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2010年10月20日水曜日
パドヴァの植物園(オルト・ボタニコ)(イタリア共和国)

パドヴァはイタリア・ヴェネト州にある町であり、ヴェネツィアの西約30kmに位置している。この町にあるパドヴァ大学は1222年に創立された大学であり、イタリアではボローニャ大学に次いで古い。ガリレオやダンテ、ペトラルカが教えていたことでも知られている。この大学に付属している植物園が世界遺産として登録された「パドヴァの植物園(オルト・ボタニコ)」である。
この植物園は植物学者フェデリコ・ボナフェーデが構想し、建築家のアンドレア・モロニが設計した。
開園は1545年の7月7日。研究目的の大学付属植物園は世界でも最古のものとなった。
現在でも創設当時の設計による庭園が残っており、庭園は円形で4つのエリアに区切られている。
園内最古の植物は、1585年に植えられたヤシの木。ゲーテが訪れて感銘を受けたことから、「ゲーテのヤシ」とも呼ばれている。
この植物園ではヒマワリの花をヨーロッパで最初に開花させ、イタリアで初めてジャガイモの栽培が行われたなどの記録も残っている。
2010年9月2日木曜日
カスビのブガンダ王国歴代国王の墓(ウガンダ):2010年登録危機遺産
2010年3月に、火災によってカスビの丘の頂部にある旧宮殿が焼失した。この旧宮殿はこの遺産の主要な構造物であり、4つのブガンダの王墓が含まれていた。この遺産は13世紀にブガンダ王国によって発展した建築様式の顕著な見本であり、再建される予定である。
カスビのブガンダ王国歴代国王の墓はカンパラ地区丘陵部の30ヘクタールに及ぶ地域を包括すしている。指定されている地域のほとんどは農地であり、伝統的な方法で農耕が行われている。核心部である丘陵の頂部ではブガンダ王国のカバカ(王)の旧宮殿があり、1882年に建設され、1884年に王墓として利用されるようになった。この旧宮殿にある、円形でドーム型天井を持つ主屋には4つの王墓があった。これは主に木材、わら、葦、編み枝としっくいによる土壁など自然の材を用いて作成された建築活動の優れた見本となっている。
しかしながら、この遺産の重要性は、信仰、精神性、継続性、アイデンティティといった、眼に見えない価値に置かれている。
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2010年8月29日日曜日
バグラティ大聖堂とゲラティ修道院(グルジア):2010年登録危機遺産
再開発プロジェクトの一環として遺産の範囲内で行われた不可逆の改変によって、遺産の統一性と真正性が損なわれる危険があるとされた。
バグラティ大聖堂は、グルジア統一王国の最初の王バグラト3世の名前にちなんでおり、その建設は10世紀末に始まり、11世紀初頭に完成した。ゲラティ修道院は、主屋が12世紀から17世紀の間に建てられており、荘厳なモザイクと壁画のある保存状態の良い複合体である。この大聖堂と修道院は中世グルジア建築の開花の象徴といえる。
世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00426.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00415en.html
2010年8月25日水曜日
ブラジル サンクリストーヴンのサンフランシスコ広場
ブラジルのサンクリストーヴンにあるサンフランシスコ広場は、初期の建築であるサンフランシスコ教会と女子修道院や、サンタ・カーサ・ダ・ミゼリコルディア、この地域の宮殿と、付随する様々な時代の住宅によって囲まれた四辺形の空間である。記念建造物の集合や18、19世紀の住宅群は、この街の始まりから現在に至る歴史を象徴する都市景観を生み出している。フランシスカンの建築の複合体は、北東ブラジルで発展した宗教思想による建築の、典型的な例とされている。
(ユネスコ世界遺産センターに記載されている文の和訳(一部意訳)。ミスがある場合はご指摘いただけるとありがたいです)
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2010年8月19日木曜日
オアハカの中部渓谷にあるヤグルとミトラの有史以前の洞窟
この世界遺産は亜熱帯のオアハカ中心部、タラコルラ河谷の北の斜面に位置しており、2つの先スペイン期の考古学的複合体と一連の先史時代の洞窟と岩陰の遺跡から成っている。これらの岩陰遺跡のいくつかは考古学や岩絵による、遊牧的な狩猟採集民から初期農耕民への発展に関する資料となっている。洞窟の1つ、ギラ・ナキッツから発見された10000年前のウリの種はアメリカ大陸で発見されている最も古い栽培植物の証拠であり、同じ洞窟から発見されたトウモロコシの穂の軸は、トウモロコシ栽培の記録されている最も古い資料である。ヤグルとミトラの先史時代の洞窟に見られる文化的景観は、人間と自然のつながりが北アメリカにおいて植物栽培の起源となり、メソアメリカ文明を生み出す下地になったことを示すものである。
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カミーノ・レアル・デ・ティエラ・アデントロ
カミーノ・レアル・デ・ティエラ・アデントロは「大地の中にある王の道」であり、「銀の道」としても知られている。メキシコのメキシコシティーからアメリカのテキサス州とニューメキシコ州を結ぶ2600kmの道であり、55の遺跡がある。この一部である1400kmの範囲が世界遺産に指定されており、世界遺産を構成しているサイトが5つある。この道は16世紀の中ごろから19世紀の300年間に渡り、主にサステカス、グアナファト、サン・ルイ・ポトシの鉱山から採掘された銀、ヨーロッパから輸入された水銀を輸送する交易路として活発に利用された。銀採掘産業によって開発され、整備された道ではあるが、スペインとアメリカインディアンとの社会、文化、宗教のつながりを生み出す触媒となった。
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17世紀に建設されたアムステルダム・ジンフェルグラハトの運河網
アムステルダムの歴史的な運河網は、16世紀末から17世紀の初めにかけて建設された、新しい港湾都市プロジェクトによって生まれたものである。歴史的な旧市街の西と南に繋がる運河網と旧市街を取り囲む中世の港によって構成されており、市の内陸にある城壁による境界、ジンフェルグラハトが含まれている。これは、同心円の円弧状の運河によるシステムを用いて沼沢地の排水を行い、その間を埋めることで街を拡大していくという、長期に渡るプログラムの一環であった。この地域には切り妻造りの屋根を有する家々や多くの記念建造物を含む、首尾一貫した都市景観が育まれている。この都市の発展は当時最も広大で、かつ一様であった。大規模な都市計画のモデルとして、19世紀に至るまで世界で模範となっていたのである。
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2010年8月17日火曜日
アルビの司教都市
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2010年8月11日水曜日
サラズム
サラズムとは「大地の始まるところ」を意味しており、紀元前4000年紀から3000年紀末までの中央アジアにおける人類による居住の発展過程を示す考古学遺跡である。遺跡は初期の都市化の発展過程をよく表している。中央アジアでも最も古いものの1つである居住地は、遊牧民による畜牛の飼育に適した山間や、この地に初めて居住した人々による農耕・灌漑の発展に貢献した広い渓谷に位置していた。またサラズムは極めて広い範囲で商業的・文化的交流が行われていたことを例証している。その範囲は中央アジアのステップ、トルクメニスタンからイラン高原、インダス渓谷、さらにはインド洋にまで及んでいる。
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2010年8月10日火曜日
少林寺塔群を含む河南省登封の”天地之中”歴史建築群
嵩山(すうざん)は中国の聖山の中心と考えられている。この標高1500mの山の麓、河南省登封市付近の40平方キロメートルの円状の地域の中に、8つの建築と遺跡の集合体がある。その中には残存する中国で最も古い宗教建造物である嵩山三闕銘や寺院、周公廟の観星台、登封天文台なども含まれる。これらの建築物は9つの王朝に渡って建設されており、天地の中心や信仰の対象としての山の力に対する認識の違いを反映している。登封市の歴史的記念物は宗教や科学、技術、教育に捧げられた中国の古代建造物の最もすぐれた例に含まれる。
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タンロン遺跡
タンロン遺跡の王城は11世紀に李王朝によって築かれたものであり、大越の独立を示すものである。紅河のハノイのデルタ地帯を埋め立てた干拓地の上に7世紀に建てられた、中国の要塞跡の上に建設されている。13世紀の間絶えることなくこの地域の政治的権力の中心であり続けた。北は中国、南はチャンパ王国の影響がある交差点に位置していることから、紅河渓谷下流に特徴的な、独特の東南アジア文化が生まれたのであり、タンロンの王城の建築と18のホアン・ディエウ遺跡がそれを反映している。
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大韓民国の歴史的村落:河回村と良洞村
河回村と良洞村は14〜15世紀に成立した、韓国の中でも最も代表的な伝統的部族村と考えられている。森林に覆われた山々に囲われ、川に面し、開放的な農地を有するというこれらの村のレイアウトと立地は、李氏朝鮮初期の特徴的な貴族的儒教文化を反映している。村は物理的、精神的な栄養を周囲の環境から供給する立地になっている。村は長となる家族や、丸太を利用した他の部族のメンバーによる家、楼閣、学び舎、儒教学校、土壁と藁葺き屋根による一般の人々のための住宅の一団が含まれている。楼閣や静養所から眺める村の周囲の山や木々、水は17世紀、18世紀の詩人たちによってその美しさが讃えられている。
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