Memphis and its Necropolis – the Pyramid Fields from Giza to Dahshur
メンフィスの遺跡群は偉大な文明の壮大な歴史的建造物にあふれている。サッカラにある階段ピラミッドは、規則的に切り出された石灰岩で建造されており、このタイプの建築物の中では最古の例として知られている。ギザでは、最古級の船の内の1つ、太陽の船が現在も残っており、クフ王のピラミッド複合体の近くで手つかずの状態で発見されたものである。サッカラはエジプトの中でも古い墓地遺跡があり、ファラオによる文明の形成期にあたる時代まで遡る。これらの建造物に対する人々の並はずれた歴史的、芸術的、社会学的興味は、古代エジプトが地球上で最も輝かしい文明の1つであった証拠と言えるだろう。
エジプトの古王国時代の首都であったメンフィス地域には、岩窟墓、華麗なマスタバ、神殿、ピラミッドなど、途方もない量の葬祭に関する建造物がある。古代では、ピラミッドは世界の七不思議の1つに数えられていた。
エジプト統一王朝の最初の統治者はメネスまたはナルメルであり、ナイルデルタの近くに新たな首都建設を命じた。メネスの町、メンネフェルまたはフウト・カー・プタハ(プタハ神の魂の住まう所)と呼ばれ、ろくろで人間を作り出す羊の頭をした工人の姿で表される創造神プタハのための、最も重要な聖域であった。壮大な町メンフィスは古代ギリシア人にも知られているが、今日残っているのはプタハ神殿のわずかな残りであり、ここからはファラオや偉人達を描いた奉納のための彫像や、記念碑的なネクロポリスが発見された。
サッカラのネクロポリスは首都に最も近く、またエジプトでも最大で、最初の石製の大ピラミッドが位置している。この墓は第3王朝の最初の王ジェセルによって建設された。ピラミッドは前身となっている墓の上に建てられたものである。前身の墓は大きな直方体であり、壁はわずかに内側に傾き、天井は平坦で、一般的にマスタバという名前で知られている。ピラミッドは、良質の石灰岩を用いて10mに及ぶ高さのある外壁に覆われた葬祭複合体の中に位置している。外壁には14の石製の偽扉があり、柱の列に挟まれた廊から成る巨大な入口を有する。入口は王位更新祭が行われたとされている。広場に通じている。広場の一つの側面には階段状の台があれ、そこにファラオの玉座が作られている。台の東と西には祭壇が築かれている。
第4王朝の最初の王、スネフェルは墓の構造を変化させ、現在一般的によく知られているピラミッドの形式を採用した。ダハシュールのネクロポリスには赤ピラミッドが建てられた。この名前は、ピラミッドに使用されていた石灰岩が赤みを帯びた色をしていることからつけられた。その南には途中で傾斜の角度が変わっている屈折ピラミッドが築かれており、この屈曲はピラミッドの発展過程の中間的要素を示している。
スネフェルの次の王位は、息子のクフへと引き継がれ、次いでカフラー、メンカウラーとなり、この3人のファラオがギザに大ピラミッドを築いた。ピラミッドは太陽、大いなる神ラーのシンボルであり、その信仰は第4王朝から突出したものとなった。古王国時代の末に位置づけられるピラミッドの玄室に書かれたピラミッド・テキストには、亡き王が太陽となる記述がみられる。
最も大きいクフ王のピラミッドには「クフの地平線」という名前がつけられていた。入口は北側の中央にある。内部には狭い回廊があり、二手にわかれている。1つはピラミッドの下にある岩盤を掘り抜いて作られた部屋に通じており、もう1つは「女王の間」と呼ばれる小さな部屋に通じており、この道からさらに大回廊と大きな「王の間」へと通じている。
残り2つのピラミッドはそれぞれ「カフラーは偉大なり」と「メンカウラーは神聖なり」と古代に呼ばれていた。それぞれの墓はスネフェルの命によって最初に作られた葬祭複合体の一部を形成している。
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2011年4月19日火曜日
2011年4月17日日曜日
世界遺産 カイロ歴史地区
Historic Cairo
カイロの歴史的中心地区は、中世におけるこの都市の政治的、戦略的、知的、商業的レベルでの国際的重要性を示す、顕著な物質的証拠である。古い町並みにあふれている点で、カイロに並ぶ都市は世界でもほとんどない。カイロの東岸にある歴史地区は7世紀から20世紀までの、600に及ぶ歴史的建造物があり、良好な保存状態で、各所にちらばって都市を構成しており、中世に遡る人々の居住の様相をよく表している。
イスラム教の創設者、預言者ムハンマドの死去後の7世紀に、アラブの軍隊はすさまじい速さで隣国に兵を進めた。640年にはカリフ・オマルの軍隊がナイル川へ到達し、バビロンを占領、その真向かいに城壁に囲まれた彼自身の都アル=フスタートを建設した。そこにカリフはメディナの預言者のモスクを建てた。シンプルな中庭が日乾レンガの壁体によって囲まれ、イスラム教のエッセンスを体現しており、飾り気がなくほとんど軍事的性格を帯びていた。
アッバース朝が支配した時期には、アル=フスタートは徐々にその重要性が低下していき、
北の郊外にあるアル=アスカルに取って代わられた。この町は軍隊の駐屯地で、統治者の宮殿や住居、商店、モスクなどの建物が徐々に集まっていった。
870年には新たな支配者アハマド・イブン・トゥールーンが、エジプトをアッバース朝のカリフ支配から独立させ、北東地域に荘厳な首都、アル=カタイを新たに建設した。この町はアッバース朝が再びエジプトを支配下に置いた10世紀に破壊されてしまった。イブン・トゥールーンの大モスクは破壊を免れた。このモスクには教育の場であった列柱に囲まれた巨大な中庭があり、壮大な装飾の丸アーチが用いられていた。デザインはおそらくイラクの職人によって行われており、現在でもカイロの中で特に見事な記念碑となっている。
カイロの栄光の時代は10世紀末に始まる。このときエジプトは強大なシーア派のイスラム王朝、ファーティマ朝によって征服され、新しい首都が建設されることになった。969年に都市アル=カーヒラが建設され、首都の中心には中央政府の建築物イマームが建っており、2つのファーティマ朝の王宮があったが、今では残っていない。
現在のアル=アズハルの一画では、その他のファーティマ朝の記念碑的建造物が残っており、3つの大きな門、市の外壁の巨大な塔、5つのモスクなどがある。これらの中で、アル=ハキーム・モスクは軍事モスクの最後の例である。小型で簡素な建物で、広い開放的な中庭と壁体が付属しており、強大な権力による中世の建築物である。アル=アズハル・モスクはカリフ・ムイッズのもと、970年から972年にかけて建設されており、聖域として、または集会所としての役割を果たしていた。このモスクには大学もあり、イスラム研究の重要な中心地となった。現在の外観は、ペルシャ様式のアーチを持つ柱廊を持ち、装飾された門、巨大な祈祷者のためのホール、レースのように彫りこまれた石で装飾された、さまざまな形のミナレットなどがあり、一連の装飾計画に基づいている。
セルジューク・トルコの侵入と十字軍による攻撃の後、エジプトは1172年にアイユーブ朝の創立者サラディンによって支配された。カイロのもっとも輝かしい時代はアイユーブ朝に代わって出現したマムルーク朝の時代であり、1257年まで権勢をほこっていた。最初のマムルーク朝のモスクは1266年にスルタン・バイバルスによって建設され、巨大なドームを有していた。スルタン・ハサン7世が建設を命じたマンドラサ・モスクは1356年から1363年のものである。この印象的な建築物は、中庭を中心に十字型の平面形をしており、儀礼的沐浴のための噴水を持つ優雅な分館はピラミッドの石材を大々的に利用して建設された。厳かで巨大な建築の外観は、天に伸びるドームと4つのうち1つが残っているミナレットによってバランスがとられている。また、宗教的な建築物に加えて、スルタンは町の東側にある広大な墓地「死者の町」に壮大な霊廟を築いた。
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http://worldheritage.is-mine.net/r00029.html
(英文)http://worldheritage.is-mine.net/r00028en.html
カイロの歴史的中心地区は、中世におけるこの都市の政治的、戦略的、知的、商業的レベルでの国際的重要性を示す、顕著な物質的証拠である。古い町並みにあふれている点で、カイロに並ぶ都市は世界でもほとんどない。カイロの東岸にある歴史地区は7世紀から20世紀までの、600に及ぶ歴史的建造物があり、良好な保存状態で、各所にちらばって都市を構成しており、中世に遡る人々の居住の様相をよく表している。
イスラム教の創設者、預言者ムハンマドの死去後の7世紀に、アラブの軍隊はすさまじい速さで隣国に兵を進めた。640年にはカリフ・オマルの軍隊がナイル川へ到達し、バビロンを占領、その真向かいに城壁に囲まれた彼自身の都アル=フスタートを建設した。そこにカリフはメディナの預言者のモスクを建てた。シンプルな中庭が日乾レンガの壁体によって囲まれ、イスラム教のエッセンスを体現しており、飾り気がなくほとんど軍事的性格を帯びていた。
アッバース朝が支配した時期には、アル=フスタートは徐々にその重要性が低下していき、
北の郊外にあるアル=アスカルに取って代わられた。この町は軍隊の駐屯地で、統治者の宮殿や住居、商店、モスクなどの建物が徐々に集まっていった。
870年には新たな支配者アハマド・イブン・トゥールーンが、エジプトをアッバース朝のカリフ支配から独立させ、北東地域に荘厳な首都、アル=カタイを新たに建設した。この町はアッバース朝が再びエジプトを支配下に置いた10世紀に破壊されてしまった。イブン・トゥールーンの大モスクは破壊を免れた。このモスクには教育の場であった列柱に囲まれた巨大な中庭があり、壮大な装飾の丸アーチが用いられていた。デザインはおそらくイラクの職人によって行われており、現在でもカイロの中で特に見事な記念碑となっている。
カイロの栄光の時代は10世紀末に始まる。このときエジプトは強大なシーア派のイスラム王朝、ファーティマ朝によって征服され、新しい首都が建設されることになった。969年に都市アル=カーヒラが建設され、首都の中心には中央政府の建築物イマームが建っており、2つのファーティマ朝の王宮があったが、今では残っていない。
現在のアル=アズハルの一画では、その他のファーティマ朝の記念碑的建造物が残っており、3つの大きな門、市の外壁の巨大な塔、5つのモスクなどがある。これらの中で、アル=ハキーム・モスクは軍事モスクの最後の例である。小型で簡素な建物で、広い開放的な中庭と壁体が付属しており、強大な権力による中世の建築物である。アル=アズハル・モスクはカリフ・ムイッズのもと、970年から972年にかけて建設されており、聖域として、または集会所としての役割を果たしていた。このモスクには大学もあり、イスラム研究の重要な中心地となった。現在の外観は、ペルシャ様式のアーチを持つ柱廊を持ち、装飾された門、巨大な祈祷者のためのホール、レースのように彫りこまれた石で装飾された、さまざまな形のミナレットなどがあり、一連の装飾計画に基づいている。
セルジューク・トルコの侵入と十字軍による攻撃の後、エジプトは1172年にアイユーブ朝の創立者サラディンによって支配された。カイロのもっとも輝かしい時代はアイユーブ朝に代わって出現したマムルーク朝の時代であり、1257年まで権勢をほこっていた。最初のマムルーク朝のモスクは1266年にスルタン・バイバルスによって建設され、巨大なドームを有していた。スルタン・ハサン7世が建設を命じたマンドラサ・モスクは1356年から1363年のものである。この印象的な建築物は、中庭を中心に十字型の平面形をしており、儀礼的沐浴のための噴水を持つ優雅な分館はピラミッドの石材を大々的に利用して建設された。厳かで巨大な建築の外観は、天に伸びるドームと4つのうち1つが残っているミナレットによってバランスがとられている。また、宗教的な建築物に加えて、スルタンは町の東側にある広大な墓地「死者の町」に壮大な霊廟を築いた。
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2011年4月14日木曜日
世界遺産 アブ・メナ(エジプト)
アブ・メナはアレキサンドリアの南、ワディ・ナトルーンとアレキサンドリアの間に位置している。この初期のキリスト教による聖なる町の教会、洗礼堂、バシリカ(初期キリスト教の礼拝建築、中央の身廊の周囲に側廊があり、両者は列柱によって別けられる)、公共の建築物、通り、修道院、住居、工房は、紀元後296年に死去した殉教者アレキサンドリアのメナスの墓の上に建てられている。
3世紀に建設された修道院はアレキサンドリアの戦士メナスを追悼するものであり、メナスはディオクレティアヌスの軍隊の士官であった。
メナスは軍隊が勝利を収めた後、いかなるキリスト教徒をも殺すのを拒否した。彼は自分がキリスト教徒であることを公言しており、それが他のキリスト教徒達が苦難とディオクレティアヌスの軍隊からの虐待に耐える絶大な心の支えとなった。彼の遺体はフリジアからラクダに乗せて戻され、ラクダがこれ以上歩けなくなったところに埋葬されたという伝説がある。その地には砂漠の中でも水が生まれ、ブドウとオリーブの木に埋め尽くされており、聖メナスのブドウ園として知られることとなった。
1900年頃から考古学的な発掘が実施され、アブ・メナが5世紀から6世紀に急速に発展していったことが分かった。600年にはオアシスが巨大なバシリカを中心に据えた巡礼都市となった。発掘によって居住区と墓域を含めた町の全体像が明らかになった。壺を作成していた陶工の工房、販売所や、壺、ランプ、玩具までも確認されている。
増加するキリスト教の巡礼者を受け入れるために、5世紀には温泉バシリカが建設され、バシリカの周りにある風呂やプールの水に湯治のための水が貯められていた。巡礼者達はアンプラと呼ばれるフラスコ型の小さな土器の壺にバシリカの水を入れていった。壺には、2頭のひざまつくラクダの間に立つ殉教者を描いた、聖メナスの印が押された。5世紀から6世紀の間は、多くの建築物が温泉バシリカの周囲に建てられ、その中には北側の修道院もあった。
アルカディウスのバシリカは5世紀に建設され、アレキサンドリアのすぐ南にあるカルム・アブ・メナスの美しい建築複合体の中心となっている。屋根は56本の大理石の柱によって支えられている。洗礼堂はこのバシリカの西端に位置しており、角が半円形となっていて、多彩色の大理石の壁龕がある。コプト教徒の記念碑的建造物で、古代のキリスト教建築のこうした要素を備えているものとしては、これが唯一のものである。教会はバシリカの西側にあり、エジプトとビザンツ建築の強い影響を受けている。
聖メナスは東西で最もよく知られた聖人と考えられている。これは、数多くのアンプラが世界中の様々な場所から発見されていることからでも明らかであり、ドイツのハイデルベルグやイタリアのミラン、ユーゴスラビア、フランスのマルセイユ、スーダンのデンゲラ、イェルサレムなどで見つかっている。
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http://worldheritage.is-mine.net/r00015.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00013en.html
3世紀に建設された修道院はアレキサンドリアの戦士メナスを追悼するものであり、メナスはディオクレティアヌスの軍隊の士官であった。
メナスは軍隊が勝利を収めた後、いかなるキリスト教徒をも殺すのを拒否した。彼は自分がキリスト教徒であることを公言しており、それが他のキリスト教徒達が苦難とディオクレティアヌスの軍隊からの虐待に耐える絶大な心の支えとなった。彼の遺体はフリジアからラクダに乗せて戻され、ラクダがこれ以上歩けなくなったところに埋葬されたという伝説がある。その地には砂漠の中でも水が生まれ、ブドウとオリーブの木に埋め尽くされており、聖メナスのブドウ園として知られることとなった。
1900年頃から考古学的な発掘が実施され、アブ・メナが5世紀から6世紀に急速に発展していったことが分かった。600年にはオアシスが巨大なバシリカを中心に据えた巡礼都市となった。発掘によって居住区と墓域を含めた町の全体像が明らかになった。壺を作成していた陶工の工房、販売所や、壺、ランプ、玩具までも確認されている。
増加するキリスト教の巡礼者を受け入れるために、5世紀には温泉バシリカが建設され、バシリカの周りにある風呂やプールの水に湯治のための水が貯められていた。巡礼者達はアンプラと呼ばれるフラスコ型の小さな土器の壺にバシリカの水を入れていった。壺には、2頭のひざまつくラクダの間に立つ殉教者を描いた、聖メナスの印が押された。5世紀から6世紀の間は、多くの建築物が温泉バシリカの周囲に建てられ、その中には北側の修道院もあった。
アルカディウスのバシリカは5世紀に建設され、アレキサンドリアのすぐ南にあるカルム・アブ・メナスの美しい建築複合体の中心となっている。屋根は56本の大理石の柱によって支えられている。洗礼堂はこのバシリカの西端に位置しており、角が半円形となっていて、多彩色の大理石の壁龕がある。コプト教徒の記念碑的建造物で、古代のキリスト教建築のこうした要素を備えているものとしては、これが唯一のものである。教会はバシリカの西側にあり、エジプトとビザンツ建築の強い影響を受けている。
聖メナスは東西で最もよく知られた聖人と考えられている。これは、数多くのアンプラが世界中の様々な場所から発見されていることからでも明らかであり、ドイツのハイデルベルグやイタリアのミラン、ユーゴスラビア、フランスのマルセイユ、スーダンのデンゲラ、イェルサレムなどで見つかっている。
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2011年4月13日水曜日
古代都市テーベとその墓地遺跡
Ancient Thebes with its Necropolis
テーベは古代エジプトの歴史、美術、宗教に関する最も優れた遺跡があり、古代エジプトの絶頂期に首都だった町である。
ファラオからローマ皇帝まで、何百もの統治者が町の建築物やオベリスク、彫像を建設した。
中王国時代から古代の終わりまで、この都市は至上の太陽神アメンの神聖な土地であった。比類ない豪華さと巨大さを持つ神殿群がこの神にささげられた。アメンヘテプ3世とラメセス2世によって建てられたルクソール神殿はカルナックの聖域とスフィンクスの列に囲まれた参道でつながっており、2つの赤色花崗岩製のオベリスクが建てられた入り口へと続いている。
ルクソール神殿の入り口はシリアやヒッタイトへの軍事遠征の場面によって飾られており、ラメセス2世によって立てられた巨大な中庭と聖船を安置するためのチャペルに続いている。聖船は父なるアメン神、ハゲワシもしくはライオンの姿で現された母なるムウト神、その子で月の神コンスの3柱神に捧げられていた。第2の構造は、アメンヘテプ3世によって立てられた巨大な塔門と列柱廊、中庭、高い柱を持つホールになっている。
ルクソール神殿から3km北には、記念碑の複合体であるカルナックがあり、3つの神殿によって構成されている。そのうち1つはムウトの聖域であり、もうひとつは戦の神メンチュ、最後はアメン神のものである。神の父に捧げられた建物は、ファラオが自らの治世の栄光を証明するために命令した度重なる拡大と改築の賜物であった。巨大な中庭の中央にはタハルカ王の巨大な祠堂が立てられている。ブバスティスのポルティコ、セティ2世の神殿、トトメス3世とラメセス1世、2世の巨像群、134本の巨像の柱による列柱室、6つの記念碑的な塔門、花崗岩製の柱やオベリスク、宗教的儀式や軍事活動の場面を描いた部屋、両側に倉庫のある聖なる池、カバの女神オペト神に捧げられた神殿(オペト神がオシリス神を生んだといわれている場所に建てられた)、そして最後に南にある前門で、4つ入り口は浅浮き彫り、柱、オベリスクと巨像群によって飾られている。
ナイル川の対岸にはテーベの死の側面が何世紀にもわたって発展していった。およそ15世紀にわたり、巨大な葬祭殿が西岸の丘陵の麓に建てられた。葬祭殿は対応する墓と完全に分離されており、墓は背後の山に作られた(王家の谷)ことで、略奪、盗掘から守られていた。
よく知られているのはラメセス2世の巨大な葬祭殿であり、耕地際に位置していた。中庭、彫像、装飾、巨像群にあふれた聖所は多くの古代の著述家によって賞賛された。アメンヘテプ3世の葬祭殿で残っているのはメムノンの巨像で、石英の一枚岩から作られており、ファラオが玉座に座している姿を現している。
ファラオと高官、神官や王妃の墓は背後の山の奥深くに隠されており、アル・アサシーフ、アル・コーカ、クルナト・ムライ、デル・アル=メディーナ、王家の谷、王妃の谷などの巨大な墓域を形成している。王家の谷の岩窟墓の中で、イギリスのカーナボン卿とハワード・カーターは1922年に小さな墓を発見したが、やがてそれはエジプトでもっとも有名なものとなった。少年王ツタンカーメンの墓である。
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テーベは古代エジプトの歴史、美術、宗教に関する最も優れた遺跡があり、古代エジプトの絶頂期に首都だった町である。
ファラオからローマ皇帝まで、何百もの統治者が町の建築物やオベリスク、彫像を建設した。
中王国時代から古代の終わりまで、この都市は至上の太陽神アメンの神聖な土地であった。比類ない豪華さと巨大さを持つ神殿群がこの神にささげられた。アメンヘテプ3世とラメセス2世によって建てられたルクソール神殿はカルナックの聖域とスフィンクスの列に囲まれた参道でつながっており、2つの赤色花崗岩製のオベリスクが建てられた入り口へと続いている。
ルクソール神殿の入り口はシリアやヒッタイトへの軍事遠征の場面によって飾られており、ラメセス2世によって立てられた巨大な中庭と聖船を安置するためのチャペルに続いている。聖船は父なるアメン神、ハゲワシもしくはライオンの姿で現された母なるムウト神、その子で月の神コンスの3柱神に捧げられていた。第2の構造は、アメンヘテプ3世によって立てられた巨大な塔門と列柱廊、中庭、高い柱を持つホールになっている。
ルクソール神殿から3km北には、記念碑の複合体であるカルナックがあり、3つの神殿によって構成されている。そのうち1つはムウトの聖域であり、もうひとつは戦の神メンチュ、最後はアメン神のものである。神の父に捧げられた建物は、ファラオが自らの治世の栄光を証明するために命令した度重なる拡大と改築の賜物であった。巨大な中庭の中央にはタハルカ王の巨大な祠堂が立てられている。ブバスティスのポルティコ、セティ2世の神殿、トトメス3世とラメセス1世、2世の巨像群、134本の巨像の柱による列柱室、6つの記念碑的な塔門、花崗岩製の柱やオベリスク、宗教的儀式や軍事活動の場面を描いた部屋、両側に倉庫のある聖なる池、カバの女神オペト神に捧げられた神殿(オペト神がオシリス神を生んだといわれている場所に建てられた)、そして最後に南にある前門で、4つ入り口は浅浮き彫り、柱、オベリスクと巨像群によって飾られている。
ナイル川の対岸にはテーベの死の側面が何世紀にもわたって発展していった。およそ15世紀にわたり、巨大な葬祭殿が西岸の丘陵の麓に建てられた。葬祭殿は対応する墓と完全に分離されており、墓は背後の山に作られた(王家の谷)ことで、略奪、盗掘から守られていた。
よく知られているのはラメセス2世の巨大な葬祭殿であり、耕地際に位置していた。中庭、彫像、装飾、巨像群にあふれた聖所は多くの古代の著述家によって賞賛された。アメンヘテプ3世の葬祭殿で残っているのはメムノンの巨像で、石英の一枚岩から作られており、ファラオが玉座に座している姿を現している。
ファラオと高官、神官や王妃の墓は背後の山の奥深くに隠されており、アル・アサシーフ、アル・コーカ、クルナト・ムライ、デル・アル=メディーナ、王家の谷、王妃の谷などの巨大な墓域を形成している。王家の谷の岩窟墓の中で、イギリスのカーナボン卿とハワード・カーターは1922年に小さな墓を発見したが、やがてそれはエジプトでもっとも有名なものとなった。少年王ツタンカーメンの墓である。
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