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2011年4月6日水曜日

世界遺産 バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群(アフガニスタン・イスラム共和国)

Cultural Landscape and Archaeological Remains of the Bamiyan Valley

バーミヤン渓谷はカブールの西264kmにあり、アフガニスタンの中央高地のヒンドゥークシュ山脈の高い山々に囲まれている。渓谷は標高2500mで、バーミヤン川に沿っている。シルクロードの行路の1つとなっており、美しい景観は伝説的な彫像が伴っている。こうした側面がバーミヤン渓谷を宗教と文化の一大センターに発展させたことに貢献している。この渓谷に居住していた人々がおり、紀元前3世紀からは都市化している。

この遺産は8つの独立したコア・ゾーンから成っており、それぞれがバッファー・ゾーン(緩衝地帯)を有する。2つの磨崖仏がある渓谷の北側の崖、バーミヤン渓谷の南東3kmにあるカクラク渓谷の6~13世紀の石窟群、フラディ渓谷にある2つの重要な石窟群であるクオリ・アクラムとカライ・ガマイ、6~8世紀の城壁、塔、土で作られた要塞によって構成されるシャフリ・ズハクとカライ・カファリ、渓谷の中心にある丘陵上に建設された6~10世紀の要塞シャフリ・グルグラなどである。

バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群は、ガンダーラ仏教美術のさまざまな文化的影響を統合した、1世紀から13世紀までの古代バクトリアの美術的・宗教的発展をよく表している。遺産のエリアには多くの仏教の道院や聖域、さらにはイスラム教時代の城塞が含まれている。またこの遺産はタリバンによって2001年に行われ、世界中にショックを与えた2つの磨崖仏に対する痛ましい破壊活動の証拠ともなっている。

アフガニスタンはアケメネス朝ペルシャの属州として古代はバクトリアと呼ばれていた。この地域はその後アレキサンダー大王によって統治され、続いてセレウコス朝、北部インドのマウーリヤ朝によって支配された。遊牧民クシャン人は紀元前2世紀からこの地を支配しており、紀元後2世紀に絶頂期に達している。ササン朝はアフガニスタンを3世紀半ばより支配下に置いており、中央アジアの遊牧民は5世紀にこの地を支配した。ササン朝と西トルコ6世紀中ごろに勢力をのばした。シルクロードはアフガニスタンを横切っており、紀元後1世紀にインドからの仏教の拡散に貢献した。クシャン人は美術と宗教の後援者であり、ヘレニズムやササン朝の影響を受けたバクトリア様式の仏教美術の導入を促した。

イスラム美術・建築は11世紀にバーミヤンにもたらされ、その時の中央アフガニスタンの支配者はガズナ朝のスルタン・マフムード(998~1030年)であった。バーミヤンの町はイランのコラサン地域をモデルにしてデザインされていた。ホラズム・シャー朝では城塞化された町シャフリ・バーミヤン(後のグルグラ)、シャフリ・ズハク、シャフリ・コシャクが発展した。13世紀の初期にチンギス・ハンの軍隊はバーミヤンの町を破壊し、仏教の道院を略奪した。ムガル帝国皇帝アウラングゼーブ(1618~1707年)は巨大な石仏の足を打つよう軍隊に命じた。渓谷はその後放棄されたが、19世紀の終わりには、石窟に人が住み始め、家畜のシェルターとして利用されていた。1979年には、7000人以上がバーミヤンの町に居住していた。1970年代にこの地は軍隊に利用されている。1990年代には紛争にさらされることになり、2001年タリバンによって石仏が破壊されたのであった。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00745.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00733en.html

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