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2011年4月17日日曜日

世界遺産 カイロ歴史地区

Historic Cairo

カイロの歴史的中心地区は、中世におけるこの都市の政治的、戦略的、知的、商業的レベルでの国際的重要性を示す、顕著な物質的証拠である。古い町並みにあふれている点で、カイロに並ぶ都市は世界でもほとんどない。カイロの東岸にある歴史地区は7世紀から20世紀までの、600に及ぶ歴史的建造物があり、良好な保存状態で、各所にちらばって都市を構成しており、中世に遡る人々の居住の様相をよく表している。

イスラム教の創設者、預言者ムハンマドの死去後の7世紀に、アラブの軍隊はすさまじい速さで隣国に兵を進めた。640年にはカリフ・オマルの軍隊がナイル川へ到達し、バビロンを占領、その真向かいに城壁に囲まれた彼自身の都アル=フスタートを建設した。そこにカリフはメディナの預言者のモスクを建てた。シンプルな中庭が日乾レンガの壁体によって囲まれ、イスラム教のエッセンスを体現しており、飾り気がなくほとんど軍事的性格を帯びていた。

アッバース朝が支配した時期には、アル=フスタートは徐々にその重要性が低下していき、
北の郊外にあるアル=アスカルに取って代わられた。この町は軍隊の駐屯地で、統治者の宮殿や住居、商店、モスクなどの建物が徐々に集まっていった。

870年には新たな支配者アハマド・イブン・トゥールーンが、エジプトをアッバース朝のカリフ支配から独立させ、北東地域に荘厳な首都、アル=カタイを新たに建設した。この町はアッバース朝が再びエジプトを支配下に置いた10世紀に破壊されてしまった。イブン・トゥールーンの大モスクは破壊を免れた。このモスクには教育の場であった列柱に囲まれた巨大な中庭があり、壮大な装飾の丸アーチが用いられていた。デザインはおそらくイラクの職人によって行われており、現在でもカイロの中で特に見事な記念碑となっている。

カイロの栄光の時代は10世紀末に始まる。このときエジプトは強大なシーア派のイスラム王朝、ファーティマ朝によって征服され、新しい首都が建設されることになった。969年に都市アル=カーヒラが建設され、首都の中心には中央政府の建築物イマームが建っており、2つのファーティマ朝の王宮があったが、今では残っていない。

現在のアル=アズハルの一画では、その他のファーティマ朝の記念碑的建造物が残っており、3つの大きな門、市の外壁の巨大な塔、5つのモスクなどがある。これらの中で、アル=ハキーム・モスクは軍事モスクの最後の例である。小型で簡素な建物で、広い開放的な中庭と壁体が付属しており、強大な権力による中世の建築物である。アル=アズハル・モスクはカリフ・ムイッズのもと、970年から972年にかけて建設されており、聖域として、または集会所としての役割を果たしていた。このモスクには大学もあり、イスラム研究の重要な中心地となった。現在の外観は、ペルシャ様式のアーチを持つ柱廊を持ち、装飾された門、巨大な祈祷者のためのホール、レースのように彫りこまれた石で装飾された、さまざまな形のミナレットなどがあり、一連の装飾計画に基づいている。

セルジューク・トルコの侵入と十字軍による攻撃の後、エジプトは1172年にアイユーブ朝の創立者サラディンによって支配された。カイロのもっとも輝かしい時代はアイユーブ朝に代わって出現したマムルーク朝の時代であり、1257年まで権勢をほこっていた。最初のマムルーク朝のモスクは1266年にスルタン・バイバルスによって建設され、巨大なドームを有していた。スルタン・ハサン7世が建設を命じたマンドラサ・モスクは1356年から1363年のものである。この印象的な建築物は、中庭を中心に十字型の平面形をしており、儀礼的沐浴のための噴水を持つ優雅な分館はピラミッドの石材を大々的に利用して建設された。厳かで巨大な建築の外観は、天に伸びるドームと4つのうち1つが残っているミナレットによってバランスがとられている。また、宗教的な建築物に加えて、スルタンは町の東側にある広大な墓地「死者の町」に壮大な霊廟を築いた。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00029.html

(英文)http://worldheritage.is-mine.net/r00028en.html

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