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2011年4月12日火曜日

世界遺産 ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟(カザフスタン共和国)

The Mausoleum of Khoja Ahmed Yasawi

ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟は中央アジアの文化と建築技術の発展を示す類まれな証拠である。ティムール朝期の主要な建築物のプロトタイプであり、ティムール朝期の建築史における重要なお手本となり、イスラム教建築の発展に大きく寄与した。

現代の町テュルキスタンの起源は中世初期にまでさかのぼる。最初は「ヤシ」という名前であり、農耕と牧畜文化の交差点であるシル・ダリア地域のシャブガルの近郊にあった。シャブガルは大きな工芸品製作と貿易の中心へと発展したが、12世紀にはヤシがシャブガル以上に重要性を増すようになった。アフメッド・ヤサウィの墓への巡礼もヤシの発展に貢献した要素である。1370年代に、ティムール(1336~1405年)が中央アジアの新たな支配者となり、メソポタミアからイラン、トランソシアナ(現在のウズベキスタン、タジキスタン、南西カザフスタン)まで支配下に置いた。ティムール帝国の首都はサマルカンドにあった。

ティムールの政策には、公共の記念碑的な建築物、宗教建造物(モスク、霊廟、マドラサ(学校、教育機関))を、シル・ダリアなど、支配地域内北部の開拓地における重要な前哨基地であった町に建設することがあった。その中に、ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟も含まれていた。

ティムールの望みはイスラムの教えを広めることでもあったが、政治的な目的でもあった。ホンジャ・アフメッド・ヤサウィは、12世紀のスーフィーの類まれな師であり、その廟は南カザフスタンにあるテュルキスタン(ヤシ)に位置している。霊廟は古代の町の北東部にある要塞がかつてあった場所に置かれており、現在この一帯は遺跡となっている。南は自然保護地域となっており、反対側は現在のテュルキスタンの町によって囲まれている。世界遺産としての物件は霊廟に限られている。バッファー・ゾーンは古代の町の遺跡地域全体をカバーしている。

霊廟は1389年から1399年の間に建設されており1405年のティムールの死まで続いた。廟の入口と内装のいくつかの部分は未完成のままになっており、結果としてその時代の建設工程を示す証拠となっている。16世紀には、霊廟は修復と表玄関の再構築が行われた。ボハラを統治していたアブドラ・ハーンによってアーチが修復された。この時代から19世紀までは、テュルキスタンはカザフ・ハーンの宮都であった。19世紀にはコーカンド・ハーン国によって霊廟は要塞にされ、日乾レンガで周囲に城壁を築いた。

ホンジャ・アフメッド・ヤサウィ廟はティムール朝期の建築の中でも最大級のものである。付近には他にも建築物があり、歴史上の偉人の霊廟や小さなモスク、中世の浴場などがある。北側では、霊廟は後に再建された城壁によって現代の町と分けられている霊廟の建材は焼成レンガと石膏に粘土を混ぜた漆喰(ガンチ)が用いられている。基礎は粘土の層の上に建てられているが、近年はコンクリートによって補強されている。イワン(アーチ形の天井)による主玄関は南東にあり、中央アジアで最も大きいドーム(直径18.2m)を戴いた方形の主ホール「カザンディク」に通じている。このホールの中心には1399年に設置された儀式用の青銅製の大釜(カザン)がある。最も重要な場所であるホンジャ・アフメッド・ヤサウィの墓は、建物の中心軸上にあり、北西の建物の最奥部に位置している。この中心に棺が置かれている。

建物の中にはいくつかの役割を持つ場所がある。集会所、食堂(アシュ・カナ)、図書館(キターブ・カナ)、モスクなどである。モスクは最初の壁面装飾の一部が唯一残っている場所であり、明るい青色による幾何学模様と花柄模様の装飾である。ドームの内面はアラバスターの鍾乳石によって装飾されている(ムカルナス)。外装では、ティムール朝期の建築に特徴的な幾何学文様に装飾的碑文が書かれた陶器のタイルによって覆われている。

美しいクーフィー体(アラビア文字の書体の一種で、コーランを記述するのに用いられる)による碑文が壁に描かれ、ドームのドラムにはコーランにある文書が書かれいてる。霊廟は1405年のティムールの死によって未完成のまま残っており、今でも主玄関の表面の仕上げと当初計画されていた2つのミナレット(塔)がない状態である。

世界遺産オンライン事典のページ
http://worldheritage.is-mine.net/r00750.html
(英語)http://worldheritage.is-mine.net/r00741en.html

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